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戦国時代

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明智光秀

2014年の大河は『明智光秀』で決定か!?

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※2014年大河ドラマは黒田官兵衛主役の『軍師官兵衛』になりました。(10月10日追記)

速報ですが、2014年のNHK大河ドラマは『明智光秀』が主人公になる可能性があるようです。まだ確定ではありません。

これまでもツイッターなどでお伝えしてきましたが、明智光秀やその娘・玉のちの細川ガラシャを主人公に大河ドラマ化してもらおうと光秀や細川ガラシャ及び細川幽斎や忠興ゆかりの地がタッグを組んでNHK大河ドラマ誘致推進協議会なるものを組織し、誘致活動を展開していましたが、その活動が実を結びそうですね。
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光秀とライアーゲーム

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今日から11月ですね。11月10日(火)から『ライアーゲーム シーズン2』が始まりますが、管理人これが楽しみ。
ライアーゲームは甲斐谷忍氏原作の漫画(こちらは読んだことがないんですが・・・)で、2007年に戸田恵梨香さんと松田翔太さんの主演でテレビドラマ化された話題作。「騙し合い・心理戦」が面白いドラマでしたが、すでにフジテレビ オンデマンドでは、『エピソード ゼロ』(有料)が配信されていますね。今回はドラマ(シーズン2)&映画(2010年春公開)とのこと。

さて本題ですが、光秀がライアーゲームに出るわけではありません(笑
騙し合いや心理戦と言えば、戦国時代、合戦や外交・内政に至るまで謀略や心理戦があらゆる面で競われた時代でもありました。そんな時代を反映して、光秀が語ったとされる言葉が

「仏の嘘を方便といい 武士の嘘を武略という」

光秀だけでなく多くの武将が“武略”を用いました。

武田信玄と上杉謙信の戦いで有名な川中島合戦では、信玄の軍師・山本勘介が“キツツキ戦法”で、信玄本隊と別働隊で山頂に陣を張る謙信を挟み撃ちにしようとしますが、それを見抜いた謙信は本陣にかがり火を焚いたままにし、夜陰にまぎれ密かに下山。上杉本陣を襲撃した武田別働隊は謙信がいると思っていた本陣に上杉軍の姿がなく驚き慌てて謙信を追撃。一時は信玄の身に危機が及ぶ大乱戦となります。謙信に見事に“騙された”武田軍。

また、信長が清州城から小牧山城に居城を移す際の有名なエピソードも、信長が見事に家臣・領民を“騙した”と言えるかもしれません。

そして、光秀の最大の“ライアーゲーム”は、本能寺の変。
信長の中国出陣の命令に居城・丹波亀山城に戻った光秀は、中国方面への出陣を装うため武器・兵糧などを輸送。
中国方面と京への分かれ道で、京へ軍勢を向ける際には、事情を知らない家臣らに不審に思われないよう「上様(信長)が中国出陣前に閲兵を行うから京へ向かう」と告げたという説があったり、当時、明智軍に加わっていた本城惣右衛門は、その覚書に「京にいる(実際は堺にいましたが)徳川家康を討つ」と思っていたと記し、これは単に惣右衛門がそう思っていたというよりは、明智軍内にそのような噂が広がっていたと考えられ、あるいは光秀自身(または秘密を知る重臣ら)が「家康を討つため京へ向かう」と告げていたのかもしれません。明智軍の多くの兵が、本能寺を襲撃した際、相手にしていたのが、まさか信長だったとは知らなかったのかもしれません。信長を討つと宣言したら逃亡や密告に走る者が現れるなど軍が乱れますからね。光秀はみごと多くの兵を“騙して”信長を討ったのです。

しかし、その光秀も、信長の死を隠し毛利を“騙して”和睦し、中国方面から戻ってきた秀吉に討たれます。秀吉は京に向かう際「上様(信長)は本能寺を脱出し無事である」と家臣や近隣の諸武将・諸勢力を“騙し”味方につけたのです。

秀吉は信長の孫・三法師を立てながら丹羽長秀らを“騙して”味方につけ織田家から実権を奪い天下統一を果たします。その秀吉の死後、今度は家康が関ヶ原の合戦で豊臣恩顧の大名を“騙して”味方につけ勝利をおさめ幕府を開き豊臣家を滅ぼすといった騙し合い。“戦国ライアーゲーム”の勝利者は家康でした。

以上、戦国時代について書いてきましたが、いつの時代も同じこと。残念ながら現代の社会においても騙し合いはなくなりません。政界だけでなく一般社会においてもいろいろありますが、振込め詐欺やここ数日話題になっている結婚詐欺など書ききれないくらい、いろいろな事件もあります。騙されないよう気をつけたいものです。

・・・といろいろ書いてきましたが結局、楽しみにしている「ライアーゲーム」の宣伝をしたいだけの管理人でした(笑

フジテレビ 『ライアーゲーム シーズン2 オフィシャルサイト』


【PR】管理人に“騙されて” ライアーゲーム関連グッズを買う(笑

本能寺の変後の諸将 〜其の八 明智光秀と山崎の合戦〜

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今回は一度触れていますが、本能寺の変後の光秀の動きを少し詳しく追ってみたいと思います。

天正10(1582)年6月2日、本能寺・二条御所を襲撃し信長・信忠を殺害した明智光秀は昼過ぎまで京市中を捜索して織田軍の残党狩り及び信長の遺体の捜索を行います。

昼過ぎ、信長の遺体を確認できないまま光秀は近江へ出発。しかし、近江の武将・山岡隆景は信長の恩義に報いるため瀬田橋と自らの居城を焼き光秀へ敵対。光秀はこの日、安土攻めを断念し居城・坂本城に入城。
この日、光秀の与力でもある、大和(奈良)の筒井順慶は京に向っていましたが、途中で信長横死を知り慌てて帰国しています。

3日、瀬田に仮設の橋を架け明智軍は近江東部に進軍。

4日、近江の多くの武将が光秀に投降・協力を約束。
大和に戻っていた順慶も家臣に少数の兵を預け光秀のもとへ向かわせますが、光秀に合流することなく退却。去就に迷っていた順慶は日和見を決め込みます。一説には秀吉が京に向かっているとの噂が流れていたとも言われています。

5日、光秀は、無人に近い状態だった安土に入城。手つかずになっていた金銀財宝を使い、朝廷や京周辺の町衆・寺社などに贈り支持を得ようと画策。
斎藤利三は秀吉の居城・長浜城を攻略。山崎片家も佐和山城を攻略。近江の大部分を光秀は制圧します。

7日、誠仁親王が派遣した吉田兼見が安土に到着。光秀に都の秩序回復を要望します。

8日、光秀は明智秀満に安土留守居を命じると京へ向かいます。

9日、光秀、上洛。正親町天皇と親王に銀子50枚を献上。夕食後に京・下鳥羽に出陣。吉田兼見らはこれを見送ります。この頃、細川藤孝・忠興父子に味方になってくれるよう願う書状を送り、さらにオルガンティーノには摂津のキリシタン大名・高山右近の説得を依頼。

信長の死の直後、細川藤孝は剃髪し幽斎と名を改め信長への弔意を表し、忠興も髻を切り、妻で光秀の娘である玉子(後のガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒否する姿勢を示していた細川父子。
これに対し光秀は書状で、「当初、腹も立ったがその気持ちもわかる」としながら「望みの領地を与える」「事を起こしたのは忠興たちを取り立てるためで他意はなく近国を平定したのちは十五郎(光秀の嫡男)や与一郎(忠興)に譲り自らは引退」するという内容を書き記し味方になるよう懇願しますがそれでも細川父子は拒絶。右近もオルガンティーノの説得を聞き入れず光秀に味方しませんでした。

10日、光秀は山城八幡洞ヶ峠に着陣。籠城の準備をはじめた順慶を説得するため藤田伝吾派遣。しかし、この頃には秀吉の到着が確実なものとなっていて順慶は光秀に与することを拒否。

11日、羽柴秀吉の軍が尼崎に到着。順慶は秀吉に使者を送り敵対しないことを約束。この頃、「藤田伝吾が切腹した」とか「徳川家康が安土城に入った」という“風聞”が流れ明智軍は動揺。
織田信孝や丹羽長秀が秀吉と合流。光秀は淀城の普請を命じ、秀吉との合戦に備えます。

12日、秀吉方の中川清秀らが天王山占拠。明智軍と羽柴軍の先陣が小競り合いを始めますが一時収束。

13日、雨の中、山崎にて明智1万6000と羽柴軍4万がにらみ合い。夕刻、明智軍の先鋒、松田政近・並河掃部隊が黒田孝高・中川清秀隊に攻撃を開始。兵力の劣る明智軍は序盤から苦戦を強いられます。主力の斎藤利三が池田恒興や加藤光泰らに包囲され敗走。明智軍は総崩れになり、光秀は勝龍寺へ退去。羽柴軍は追撃し勝龍寺を包囲。夜になり光秀は溝尾勝兵衛ら数名と共に包囲を抜け、坂本を目指すも途中、一揆に襲われ光秀は重傷を負い勝兵衛の介錯で切腹して果てます。享年55歳(近年67才説も浮上)

14日安土の留守居を任されていた秀満は、光秀敗死の報を受け坂本へ向かいます。
この日?丹波亀山城を守っていた光秀の長男・十五郎光慶も討死。

15日、秀満は光秀の妻子を殺し、坂本城の財宝を羽柴軍に引き渡し城に火をかけ自刃。坂本城近くの堅田に潜伏していた斎藤利三は光秀配下の同輩・猪飼野秀貞に捕らえられ秀吉方に引き渡されます。この日、本能寺では光秀の首が晒されます。

16日、織田信孝は安土城に入城。

17日、利三は市中引き回され六条河原で処刑。享年49歳(45歳とも)。光秀と利三は首と胴体をつなぎ合わせた上で粟田口で磔にされます。

22日、二人の首は首塚に埋葬。

余談ですが、光秀の娘・玉子はのちに細川ガラシャとして、利三の娘・福は春日局として歴史に名を残すことになります。

旧本能寺の焼けた瓦発見!!

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発掘された旧本能寺・丸瓦(京都市文化財保護課提供)
連日の本能寺ネタですが、今回は大ニュースといってもいいかもしれません!

先ほど(7時台の)NHKのニュースを見ていたら『本能寺の変』の話題が!
何かと思えば“旧本能寺跡の発掘調査で大量の焼けた瓦が発見”されたとのこと。
あっておかしくないのですが、旧本能寺関連の遺物が発見されたのは今回が初めて。大変な発見だったと思います。

今回の調査では瓦のほかにも幅6メートル深さ1メートルにも及ぶ堀や2メートルの石垣も一部検出されたということで、これは旧本能寺が小規模な城郭というか砦のような作りだったことを証明する大発見だと思います。
ちなみに大量の瓦は、発見された堀から出土したそうです。

本能寺の変では、信長自慢の名物茶道具も多数焼失しているので、報道はされていませんでしたが、この瓦類以外に“もしかしたら”名物茶器の破片も発見されているかもしれませんね。

さらに期待してしまう究極の発見が本能寺変で自刃して果てた信長公の遺骨

本能寺焼失後、明智軍の懸命の捜索にもかかわらず信長の遺体は発見されませんでした。
阿弥陀寺の清玉上人がひそかに遺体を運び埋葬したという伝承もありますが、真相は不明。本能寺の猛火で遺体が焼き尽くされ明智軍が確認できなかった可能性もあり、もしかしたら今回の発掘調査で何か発見されたり・・・というのは難しいでしょうか?

あるいは地下道が検出されたり??というのは妄想に近いですね・・

とりあえず、今回の調査で旧本能寺の瓦や遺構が発見されただけでも大成果ですね。
今後の調査(あるのかな?)にさらに期待です。

【詳細記事】
読売新聞 『焼けた?瓦出土、本能寺の変「史実を裏付ける貴重な発見」』

中国新聞 『「本能寺の変」焼け瓦か 初の遺構発見』

※写真は今回発掘された旧本能寺の丸瓦(京都市文化財保護課提供)

有岡城陥落 〜其の二 有岡城占拠〜

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天正7(1579)年10月、明智光秀は、長岡藤孝(後の細川幽斎)と共に丹後の一色満信を攻め一色氏を降伏させ丹後を平定します。一説には藤孝の娘と満信の婚姻を条件に講和したともいわれています。光秀が丹波攻めを開始してから4年余り。ようやく丹波・丹後の平定がなります。

10月24日、光秀は、安土の信長へ丹波・丹後の平定を報告。
後日、丹波は光秀、丹後は藤孝へ与えられます。

これによりさらに織田軍には戦力的ゆとりが生まれ、摂津・有岡城は更なる窮地に追い込まれます。

11月19日、織田方は、有岡城に残る村重の重臣らに対し、ある条件を提示します。
その条件とは、「尼崎・花熊(花隈)の両城を明け渡せば、有岡城の村重の妻子らを助命する」という内容でした。
この条件を受け入れた村重の家老・荒木(もと池田)久左衛門ほか主な家臣らは妻子を人質として有岡城に残し、尼崎城へ向かいます。

このとき村重の妻らは、村重へ死を覚悟した内容の歌を送ります。これに対し村重は諦めとも取れる内容の歌を返しています。
※『信長公記』には、その歌が詳しく記されています。

重臣が退去した有岡城には津田(織田)信澄が入城し、警備のため兵を配置し、事実上有岡城は織田軍の支配下に置かれます。

荒木村重を説得するため尼崎城に向かった荒木久左衛門らは、村重を説得しきれず翌12月、有岡城に残された人質は悲劇的な結末を迎えることになります。
詳細はまた次回。

『本能寺の変の真相』と『ドラえもん最終話』

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ドラえもん“最終話”
今年もまた6月2日がやってきましたね。信長ファンなら忘れることはない『本能寺の変』が起こった日であり、信長公のご命日。

ちなみに天正10年6月2日は、ユリウス暦では1582年6月21日、現代の暦(グレゴリオ暦)で言うと1582年7月1日だそうです。

※ユリウス暦とグレゴリオ暦の誤差を理解していなかったため、記事の修正前、現代の暦で言うと6月21日と記していました。
ご指摘してくださったk2様、小嶋日向守信房様ありがとうございます。



このブログで連載中の『織田信長史』は、まだまだ本能寺の変にたどり着きそうにありません。
遅筆で申し訳ありません。(ウ〜ン、まさかこんな長期連載になるとは予想していませんでした・・・)

そして、アンケート掲示板 『本能寺の変の黒幕は誰』378名(2007/6/2現在)ものご回答頂きありがとうございます!引き続き多くの方のご参加お待ちしています。

例によって?本能寺の変の詳細については、連載終了後に特集したいと思っていますが、今回は最近問題になっている『ドラえもん最終話』と『本能寺の変の真相』について、個人的に共通点があるような気がするので、その辺についてチョト触れたいと思います。

『ドラえもん最終話』、実は私も昨年暮れくらいだったでしょうか?ネットで掲載されているのを読んだことがあります。
実に良く出来た作品で、原作者の藤子・F・不二雄先生が実際に書いたのではないかと思わせるような感動的な作品でした。

内容は、
電池切れで動かなくなったドラえもん。電池を交換するとすべても記憶がなくなってしまう。ドラえもんが自分たちのことを忘れてしまうのは悲しすぎるということで、のび太が猛勉強して記憶をなくさずにドラえもんが再び動けるようにする。
実は、猛勉強して数十年後、科学者になるのび太がドラえもんの設計者だった。ドラえもんは、再び動き出し、数十年後ののび太と“再会”。
確かこんな感じだったと思います?

ご存知のように原作者の藤子・F・不二雄先生は10年ほど前にすでに亡くなっており、ドラえもんの最終回は存在しません。この話は、ドラえもんの大ファンと思われる“田嶋・T・安恵”という方が描いた想像の最終回。(同人誌として発行されかなり売れたようです。)
この話以外にも多くのファンがそれぞれいろいろな最終回を思い描いていることと思います。

ここまで書いたら“ピン!”とこられた方もいるかも知れませんが、『本能寺の変の真相』についても同様で、現存する史料で読み解く限り、正直なところ本能寺の変は

 「明智光秀が、本能寺に宿泊する織田信長を襲撃して死に追いやった」

それしか確認できません。なぜ謀反に踏み切ったのかその真相は不明で、現在伝わる怨恨説や野望説そして多くの黒幕説などそのほとんどが江戸時代以降の人の“推測”であり“想像”でしかありません。これから先も新たな史料の発見がない限り真相は不明であり、想像だけが語り継がれることになります。

今回の『ドラえもん最終話』も数百年後には“真の最終回”として伝わっているかもしれません。そして、現在も含めこれからもいろいろな人が最終回を創作し、いろいろな“説”が飛び交うのかもしれませんね?まあ、現代は多くの情報が残されているので真相が不明になるようなことはないでしょうが・・・

藤子・F・不二雄先生が『ドラえもんの最終話』を描いていたらどのような内容になっていたんでしょうね?
そして、『本能寺の変の真相』が、解明される日は来るのでしょか?

誰かタイムマシーンを発明してください!!

明智光秀、丹波平定

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天正7(1579)年6月、明智光秀軍に包囲されてから半年になる波多野兄弟が籠城する丹波・八上城内で変化が現れます。

兵糧も尽き、餓死者が出はじめ城兵は草木や牛馬を食べるような状況になっていました。中にはフラフラの状態で城外打って出てくる兵もいましたが、ことごとく明智軍に討ち取られる有様でした。

6月1日、そのような状況で、光秀は城内に調略も仕掛けていました。
限界に達した波多野家臣は、城内で反乱を起こし波多野三兄弟(秀治・秀尚・秀香)を捕らえ、光秀に引き渡し、これにより八上城は陥落します。

4日、(6日とも)波多野兄弟は洛中を引回された後、安土へ護送されます。
信長は安土城下の慈恩寺の町外れで三兄弟を磔にし処刑します。


八上城に入った光秀は、配下の兵に一時の休息を与えると丹波平定の総仕上げに動き出します。

7月19日、宇津頼重の立て籠もる丹波・宇津城へ進撃。明智軍の総攻撃に頼重は城を捨てて逃げ出しますが捕らえられ処刑されます。光秀は一気に近くの鬼箇城も攻め近隣を焼き払います。

8月9日、明智軍は赤井忠家?(信長公記では既に死んでいる直正となっています)の立て籠もる黒井城にも攻め寄せます。城兵は果敢に城外に打って出てきますが、かなわぬと見るやすぐさま城内に逃げ戻ります。しかし、明智軍の追撃により十数人が討ち死。赤井氏は、丹波の大半が織田方の手に落ちた状況に観念し、諸条件をつけながらも光秀に降伏します。

光秀が丹波に攻め入ってから約4年。ついに丹波平定は成し遂げられ、報告を受けた信長は「長期にわたり在陣し数々の戦果をを挙げたのは比類なき功績」と褒め称え感状を贈ります。


尚、この八上城攻略の際、光秀は自分の母を人質に差し出し、波多野兄弟に降伏を勧めますが、波多野兄弟が信長に殺されたため光秀の母も報復で殺害され、その恨みから本能寺の変を引き起こしたという話がありますが、これは江戸時代の人たちが現代と同じように本能寺の変の動機を推測したもので、信頼できる資料にはこの事実は記載されていないようです。

ちなみに赤井氏はその後江戸期には徳川旗本や藤堂氏の重臣となっています。

丹波・八上城包囲 〜明智光秀VS波多野兄弟〜

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1578(天正6)年12月、摂津の荒木村重攻めに引き続き播磨・三木城の別所長治包囲戦の後方支援を終えた明智光秀は休む間もなく、本来の任務である丹波攻略を本格再開します。

別所長治・荒木村重の相次ぐ謀反により頓挫していた丹波平定戦は既に三年目を迎えていましたが依然、有力国人である黒井城の赤井氏や八上城の波多野氏が抵抗を続けていました。

黒井城の萩野(赤井)直正は、この年3月に既に病死していましたが、本来の当主である甥の赤井忠家は健在でした。しかし、実力者の直正の死でその勢力はかなり衰えている状況でした。

余談ですが荻野直正の二人目の正室(最初の正室とは死別)は、本能寺の変の黒幕説もある近衛前久の妹です。

12月中旬、このような状況でしたが、光秀はまず狙ったのは、八上城の波多野秀治・秀尚兄弟でした。光秀は、播磨から取って返すとすかさず八上城を包囲。

明智軍のみでありながら堀や柵を幾重にも張り巡らせ八上城を完全に孤立させ、以後半年に渡り包囲することになります。

21日、荒木村重攻めのため古池田(大阪市池田市)に本陣を構えていた信長は、京都に帰陣。25日には安土へ帰国します。

明智光秀の丹波攻め 〜其の二 丹波亀山城攻略〜

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1577(天正5)年10月、信貴山城の松永久秀討伐を終えた明智光秀は、丹波攻めを再開することになります。

10月下旬、光秀は細川藤孝と共に丹波へ出陣し、29日には籾井城(兵庫県篠山市)を攻めます。籾井城はすぐに攻略されたようで、さらに明智軍は守護代内藤氏の籠もる丹波亀山城(京都府亀岡市)迫ります。
(※前回、内藤氏や宇津氏は初期の丹波攻めで降伏したとしていましたが、このときまで顕在だったようです。申し訳ありません)

明智軍は、丹波亀山城も短期間で攻略し、光秀は12月には本拠・坂本に帰国します。
この時の丹波攻めについては。『細川家記』や『兼見卿記』などには書かれていますが、なぜか『信長公記』には触れられていません。著者・太田牛一関心事は同時期に開始された中国・毛利氏攻めのほうにあったのかもしれません(?)

光秀は翌天正6年には、亀山城を修築し、丹波攻略の重要拠点としますが、この後、有力国人衆である赤井氏や波多野氏さらに他の国人衆の抵抗に苦しめられ、そのうえ例によって他の戦線への援軍や荒木村重の謀反なども重なり、丹波平定までは足かけ4年という長い年月を要することになります。

明智光秀の丹波攻め 〜其の一 丹波衆の離反〜

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1577(天正5)年10月末、秀吉が中国攻めを開始したのとほぼ時を同じくして明智光秀は丹波に攻め入ります。これは第ニ次丹波攻めともいえるものでした。

ここで話は遡ってしまいますが、丹波の状況は複雑なので、整理のため記述したいと思います。

丹波の守護は細川氏でしたが、信長が足利義昭を奉じて上洛したころは既に萩野氏・芦田氏・波多野氏・内藤氏・宇津氏・須知氏などの国人衆が実権を握り、反三好同盟といえるような協力関係を築いていました。丹波衆は、足利将軍家と友好関係にあるものが多かったため、信長上洛当初は、良好な関係でした。
※丹波の守護職を一色氏としていましたが、正しくは細川氏でした。お詫びして訂正させていただきます(2008.1.10)
ご指摘してくださった田中とよしげ様、ありがとうございます。


1573(元亀4)年、将軍・足利義昭追放により、大きく情勢が変わっていきます。
丹波で最大級の勢力を誇る黒井城の萩野(赤井)直正が反旗を翻します。これには甥の芦田五郎(赤井忠家)も同調したようです。
この状況に信長は、当初、細川藤孝を丹波に派遣し、懐柔を図ります。

1575(天正3)年6月、この外交努力も実らず、内藤・宇津氏も離反し、ついに信長は丹波攻めを決断し、明智光秀にその攻略を命じます。
光秀はすぐさま丹波攻めを開始しますが、この時、後(天正5年)に秀吉軍により攻略される但馬の竹田城を攻めていた萩野(赤井)直正は居城・黒井城に戻り光秀軍に備えます。

光秀は、北桑田郡の川勝氏や船井郡の小畠氏らの協力を得ながら丹波攻略を進めますが、同年の越前一向一揆攻めにも参陣を命ぜられるなど、丹波攻めに集中できない状況でした。

1575(天正3)年10月、このような状況にありながら、小規模の国人衆は屈服させたようで、丹波最大の難敵・黒井城の萩野直正を滅ぼせば丹波平定は成ったも同然という状況でした。光秀は八上城の波多野氏ら丹波の国人衆に命じ、黒井城を包囲します。

1576(天正4)年1月、黒井城を包囲して二ヶ月あまり経過した15日、突如、萩野氏と並ぶ丹波の有力国人である波多野秀治が離反。足利義昭や本願寺・武田勝頼ら反信長勢力と手を結んでしまいます。光秀は包囲を解き、退却を余儀なくされます。

翌2月下旬、再度丹波へ攻め入りますがこれは丹波衆へのけん制のみで、すぐに退却したようです。信長は丹波よりも石山本願寺攻めを優先させ光秀にも出陣を命じます。

1576(天正4)年6月、光秀は、一年に渡り休む間もなく、各地に転戦した疲れが出たのか遂に病に臥せり、丹波攻めは天正5年10月まで一時中断されることになります。
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