天正10(1582)年5月11日、信孝が四国遠征のため出陣した同じ頃、徳川家康も主だった重臣を引き連れ安土へ向け出発していました。この日は岡崎(愛知県岡崎市)に到着し、松平家忠らの接待を受けます。

家康や穴山信君を迎えるに当たり、信長は街道の警備はもちろんのこと、家康一行の宿泊予定地の領主に出来る限りの接待を命じます。

12日、家康一行は岡崎を出発。

14日、家康が甲斐の穴山信君といつ頃合流したかは不明ですが、両者はこの日、近江・番場(滋賀県・米原町)に到着。丹羽長秀が接待に当たります。同日、信長の嫡男・織田信忠も安土に向かう途中、番場に立ち寄り丹羽長秀の接待を受けており、記録が残っているか不明ですが、家康や信君とも顔を合わせていたかもしれません。家康らはこの日、番場に宿泊しますが、信忠は泊まらず安土へ向かいます。

15日、家康一行も安土に到着。安土での接待は明智光秀が命じられていました。
光秀は、京や堺の珍しい食料を調達して最高のもてなしをしようとかなり気を使って準備を進めていたようですが、フロイスの著した『日本史』ではこの接待の際、「信長と光秀の間に口論があり、怒った信長が光秀を一度か二度足蹴にする」といったようなことがあったとされています。

別の話として、秀吉の家臣・田中吉政の配下の川角三郎右衛門が元和年間に纏めたともいわれる『川角太閤記』では、「家康一行に出す料理を調理していた現場に腐った魚が置いてあったことに信長が激怒。即刻、光秀を饗応役から解任し、光秀は面目を失った」という記述もあるようです。
この他にもこの接待の際、何かしらの事件があったような指摘がありますが、いずれも真偽は不明のようです。

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