天正10(1582)年6月1日、この日、一度は収束したかと思われていた暦の問題を信長が再び蒸し返します。公家の勧修寺晴豊は日記に「これ信長むりなる事候」と記しています。

この問題は、この年1月に濃尾の暦者の訴えが発端になったようで、東国で多く利用され信長が慣れ親しんだと思われる「三島暦」と朝廷が定める公式の暦「宣明暦(京暦)」の間でこの年大きな矛盾が生じていました。それは三島暦ではこの年12月のあとに閏12月とするのに対し宣明暦では翌年1月のあとに閏1月を入れるというもので、元日が一ヶ月ずれるという大問題でした。

信長は、天下統一と共に多数存在する暦の統一も自分の政権下で成し遂げようと考えたかは不明ですが、この問題を解決しようと動きます。

1月29日、宣明暦を作っていた陰陽頭の土御門久脩と暦博士の加茂在昌を安土に呼び、これに濃尾の暦者も交えどちらの暦が正しいか討論させます。この討論の場には近衛前久も証人として立ち会ったようです。この日、かなり議論されたようですが結論はでませんでした。

2月3〜5日、京の近衛邸や京都所司代・村井貞勝邸で久脩と在昌に儒医で中国古典にも精通している曲直瀬道三も加わり再検討。宣明暦が正しいと判断。この結果を後日信長に報告。この問題は一旦、収束します。

6月1日、この日は日蝕だったようですが、宣明暦はこれを予測できなかったようで、信長は宣明暦に不信感を抱き再び暦問題を蒸し返したようです。

作暦は天皇の大権。これに信長が介入し朝廷との対立が在ったように思われる方もいるようですが、信長は天皇の権限を侵す意図は全く無く、純粋に正しい暦を知りたかった(または正しい暦で統一したかった)だけなのかもしれません。


※主に『検証 本能寺の変』(谷口克広著)を引用・参考にしました。