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本能寺の変

本能寺の変後の諸将 〜其のニ 徳川家康と伊賀越え〜

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天正10(1582)年6月2日、徳川家康は穴山梅雪(信君)や信長の側近・長谷川秀一らと共に堺に滞在中。一説には信長の上洛を知り京に向かっている最中であったとも言われています。

家康は、信長に京へ向かうことを知らせるため、先行して本多忠勝を出発させていました。忠勝は途中で、家康と交流のある京の商人・茶屋四郎次郎と出会い凶報を知ります。四郎次郎は凶変を知らせるため家康のもとに向かう途中だったようです。忠勝は四郎次郎と共に家康のもとに急ぎ引き返します。

2日昼前後?、河内・四条畷辺り(大阪府四条畷市)で、信長の死を知った家康は自刃も覚悟したと言われていますが家臣らの説得で冷静さを取り戻し領国への帰国を決意急ぎへ向かいます。

この時、家康に従っていたのは酒井忠次・石川数正・本多忠勝・榊原康政・服部半蔵正成・大久保忠佐ら多くの重臣と小姓衆の井伊万千代直政・鳥居松丸忠政・青山虎丸定長など40名あまり。
そして、穴山梅雪も穴山五郎左衛門や跡部因幡守・馬場丹後守忠次らの家臣40名余りを従えていました。
徳川・穴山両軍合わせると100名近い勢力がありました。さらにその従者らを考えると数百名規模に達したかもしれません?

家康一行は四条畷から飯盛山麓さらに尊延寺(いずれも大阪府)を通り、3日午前10時頃?宇治田原(京都府畷喜郡)、そして、その日の夜には近江・信楽の小川城(滋賀県甲賀市)に到着。城主・多羅尾光俊から赤飯を出されるとほとんど飲まず食わずで移動し続けた一行は一気にそれを食べたそうです。一行はここで一泊。

4日早朝、家康一行は出発。丸柱・柘植(ともに三重県伊賀市)・加太(亀山市)を通り白子(鈴鹿市)の港に到着。ここから船で三河・大浜(愛知県碧南市)に無事到着。この頃になると徳川領内でも本能寺の変で信長・信忠父子が撃たれたということが確認されていて、家康が伊賀経由で三河に向かっていることも伝わっていたようで、家康家臣・松平家忠らは大浜まで一行を迎えに行っています。

家康は後に「神君伊賀越え」といわれるこの逃避行で伊賀衆ら数百名の助けや茶屋四郎次郎の“金の力”を借り無事帰国を果たしますが、この間、一揆らとの戦いで200名近い家臣らを失います。

一方の穴山梅雪は、2日家康らと協議の結果、別ルートで甲斐を目指すことを決めます。梅雪が家康を警戒したのか、何か別の策があったのか両者が別行動をとった理由は定かではありませんが、梅雪一行は家康らより遅れて出発。草内(京都府京田辺市)付近の木津川河畔で土民の襲撃にあい多くの家臣と共に討ち死に。享年42歳。
家康の謀略説もありますが、家康は梅雪の嫡子・信治に家督を継がせ、妻・見性院も大切に扱うなど謀略をうかがわせるような痕跡はあまり見当たらないような気もします?

もう一人、家康に随行していた信長の側近・長谷川秀一ですが家康とともに最後まで行動し無事難局を乗り越えます。この後、羽柴秀吉に仕え、越前・東郷(福井市)15万石を賜り、秀吉の天下統一事業に貢献します。

二条御所合戦 〜其の一 織田信忠、最大の決断〜

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天正10(1582)年6月2日、明智光秀の軍勢が本能寺に宿泊する信長を襲撃したとの情報はすぐさま妙覚寺に宿泊する嫡男・信忠に知らされます。信忠はすぐに本能寺に救援に向かおうとしますが、本能寺付近に邸宅を構えていた村井貞勝父子三人が駆け付け信忠に「すでに本能寺は敗れ炎上、敵はこちらにも迫るでしょうから二条御所に立て籠もるのが良いでしょう」と進言。

本能寺と妙覚寺の直線距離600m。道成りに行っても1km弱ということなので、成人男性が走れば5分程度、甲冑を着けていても10分程度?馬で知らせに駆けつければ数分の距離ということを考えると本能寺での戦いは実際は30分もかからなかったのかもしれません。

信忠に対し、安土まで引き態勢を整えた上で明智討伐をするよう進言する者もいたようですが、信忠は「これほどの謀反だから敵は手を打っているだろう。雑兵の手にかかるよりは、ここで切腹するほうがよい」ということで二条御所で明智軍を迎え撃つ決意を固めます。

実際は明智軍は安土への街道は封鎖しておらず、この後二条御所から信長の弟・織田長益(有楽斎)は脱出に成功しており、信忠は最大の判断ミスを犯したように思われますが、光秀は“唐櫃越え”といわれる老ノ坂とは別ルートで明智光忠らの別動隊を京に進軍させ信忠が宿泊する妙覚寺も同時に襲撃する計画でしたが別動隊は進軍に難航して同時に襲撃できなかったという説もあり、これが事実であれば信忠の判断は決して誤ったものでもなかったのかもしれません。

二条御所には、この頃、皇太子の誠仁親王一家が住んでいましたが、信忠軍が駆け込んだことにより明智軍に包囲されます。信忠方と明智軍の間で交渉が行われ誠仁親王一家が無事退去するまで一時休戦となります。一時は死を覚悟した誠仁親王の退去により明智軍の攻撃は再開。

信忠軍1000人前後または多く見積もってもその倍程度。明智軍は本能寺の焼け跡で一部が信長の遺体を捜索していたものの大部分が二条御所に集結。

織田信忠、6年前の天正4(1576)年、信長から織田家の家督をすでに譲られており秋田城介にも任官。武田討伐も実質総大将として信長の手を借りることなく勝利に導き、信長の期待に見事に応え、立派に成長した信長後継者の最後の戦いが始まろうとしていました。

本能寺の変 〜其のニ 信長死す!夢幻の如く・・・〜

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信長・本能寺の変の図(画・ろくまめ様)天正10(1582)年6月2日未明。明智光秀の軍勢は、当時の京の町境に設置された木戸を押し開け、ある者は森や竹藪などを進み、本能寺を包囲。そのざわめきで信長は目を覚まします。

信長や小姓らは、初め喧嘩騒ぎでも起こっているものと思っていたようですが、鬨(とき)の声が上がり鉄砲を撃ち込まれ、ようやく異変を感じ森乱丸が様子を見に行きます。

森乱丸の報告で明智光秀の謀反であることを知った信長は
「是非に及ばず」−是非を論ずるまでもない。もはや行動あるのみ!(藤本正行氏の解釈 『信長は謀略で殺されたのか』 より)−
と一言発し、すぐさま小姓らを集め防戦態勢を整えます。
信長は死を覚悟したのではなく、最大の危機を迎えながらもけっして天下統一の夢をあきらめませんでした。「この場を持ちこたえれば(直線距離でわずか600メートルという距離にいる)信忠軍や京都所司代の村井貞勝の軍勢など総勢2000前後が駆けつける」そのような考えだったかもしれません。

攻め寄せる明智軍1万3000。光秀は別動隊を編成していたという説もあり、それを差し引いたとしても1万近い兵が本能寺を包囲。対する本能寺内の信長の手勢下働きの者を含めても100人前後。

当時明智軍に加わっていた本城惣右衛門の覚書から推測すると、本能寺北側から先鋒の明智秀満の軍勢が御殿へ討ち入り、南側の正門から惣右衛門ら斎藤利三配下の者が討ち入り、利三の息子の軍勢は北側の主戦場である信長の御殿へ向かったようです。

南側にある表御堂に詰めていた御番衆も御殿へ向かい信長と合流。御厩にも明智軍が乱入。混乱の中、矢代勝介や伴太郎左衛門・伴正林・田村吉五が抜け出し信長のもとへ向かいますが討ち死に。矢代は関東出身だったので逃げるよう他の者から勧められますが信長の恩に報いるため討って出たようです。

御厩で奮戦した、御中間衆、藤九郎・藤八・岩・新六・彦一・弥六・熊・小駒若・虎若その息子小虎若ら24人が討ち死に。

御殿では信長が弓を取り戦い、森乱丸成利・坊丸長隆・力丸長氏ら小姓衆も信長を守って奮戦。
町中の宿舎で異変を知った湯浅甚介や小倉松千代は明智軍にまぎれ信長のもとに駆けつけ討ち死に。台所口では高橋虎松がしばらく明智軍を押しとどめながらも討ち死に。

『信長公記』にその名は出てきませんが黒人家臣の弥助も信長とともに戦っていたともいわれ、明智軍に捕らえられ外国人であるため許された。あるいは本能寺を脱出し信忠のもとへ駆けつけたともいわれていますが、弥助のその後の消息は不明です。

信長は弓を二つ三つと取り換えながら矢を射続け、弓が使えなくなると槍で戦い続けますが 安田作兵衛の?槍を肘に受け退散。後追う作兵衛に乱丸が十文字の槍で挑み一撃を与えるも反撃され討ち死に。享年18歳。

命運尽きたことを悟った信長は女房衆に退去を命じると燃えさかる御殿の奥に入り、納戸の戸を閉め自刃。享年49歳。信長が好んで舞った幸若舞の一節『人間五十年〜』に及ばぬこと一年、信長の天下統一の夢は幻の如く消えました・・・

森三兄弟や矢代・湯浅・小倉・高橋の他、信長と運命を共にした主な者の名は小河愛平・金森義入・菅屋角蔵・魚住勝七・武田喜太郎・大塚又一郎・狩野又九郎・薄田与五郎・今川孫二郎・落合小八郎・伊藤彦作・久々利亀・種田亀・山田弥太郎・飯河宮松・祖父江孫・柏原鍋兄弟・針阿弥・平尾助・大塚孫三。

圧倒的な兵力差の前に本能寺での戦いは短時間(1時間前後か?)で終わったようで、本能寺から離れた場所を宿所としていて信長の救援に間に合わなかった馬廻衆やその他の織田家臣らは妙覚寺の信忠のもとに向かい明智軍と最後の一戦を交えることになります。


※今回の挿絵は、ろくまめ様に頂きました。ありがとうございます!
尚、タイトルは管理人が勝手につけさせてもらいました。

本能寺の変 〜其の一 敵は本能寺にあり!〜

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明智光秀 (本徳寺蔵)天正10(1582)年6月1日夕刻。明智光秀は、大将格の家臣を集め「森乱丸の使者が来て上様(信長)が中国出陣前に閲兵を行うので京へ向かう」と告げます。これはもちろん京へ軍勢を向けることを不審に思われないようにするための虚報だと思われますが、これを事実とし明智軍を京へ呼んだのは信長自身だったと考えておられる研究者(作家)の方もおられるようです。

『信長公記』では「老の山へ登り山崎廻りで摂津を進軍」し、備中方面へ向かうと告げたとなっています。

この後、丹波亀山(城内または出陣して間もなく)にて光秀は、信長打倒計画を重臣に打ち明けます。謀議に加わったのは、娘婿の明智左馬助秀満・従兄弟の明智次右衛門光忠・光秀の傅役であったといわれる老臣・藤田伝五行政斎藤内蔵助利三、これに溝尾勝兵衛茂朝も加わっていたとも言われています。

当初、反対する者もいたようですが、光秀は「同意してくれなければ一人で本能寺に切り込み切腹して果てる覚悟である」との強い決意に最終的には謀反に同意。
『当代記』によれば起請文を書き、人質もとったとされています。

酉の刻(午後6時頃)、明智軍は、亀山の東・柴野に差し掛かり、この地で光秀は軍を三隊に分けます。
第一陣は明智秀満率いる4000。
第二陣は明智光忠・藤田伝五・溝尾勝兵衛率いる4000。
第三陣は光秀、自ら率い、斎藤利三らが従う5000。


夜、前日まで降り続いた雨でぬかるんだ丹波街道を明智軍は京に向かい進軍。老ノ坂を越え沓掛に到着。光秀はここで兵馬を休め、その間に天野源右衛門を先発して京に向かわせ偵察及び明智軍を裏切り信長に報せに走る者を討ち取るよう命じます。

6月2日、天野隊は京に入って間もなく、まだ夜が開け切らない時間に農作業をしていた農民20人余りを早速切り殺したようです。

2日未明、天野隊から少し遅れて出発した本隊も桂川西岸に到着。光秀はここで全軍に戦闘準備をさせます。

「我が敵は正に本能寺に在り!」
『日本楽府』にでてくる有名な台詞がこの時の言葉ですがこれは著者・頼山陽の創作。

光秀がこの時、どのような言葉を発したか分かりませんが、斎藤利三配下に加わり本能寺を襲撃した本城惣右衛門は本能寺の場所すら知らず、この頃上洛していた徳川家康(実際には堺にいましたが)を討つものと思っていたようです。

このように明智軍1万3000のほとんどの者が、主君・光秀の真の狙いが信長であることを知らないまま桂川を渡り、京に乱入し本能寺を包囲。

静まり返った京の町に鳴り響く明智軍の進軍の音は本能寺で眠っていた信長らの目を覚まさせます。

“本能寺の変”直前の信長と織田家諸将

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天正10(1582)年6月1日、本能寺の変前日、織田家の主だった家臣たちはどこで何をしていたのでしょうか?

柴田勝家率いる北陸方面軍は、越中(富山県)の上杉氏の属城・魚津城攻めの真っ最中。勝家の配下には前田利家や佐々成政・佐久間盛政が従っていました。魚津城は、本能寺の変翌日の6月3日、織田軍の猛攻により落城しますが、本能寺の変の方に接した勝家らが撤退後、再び上杉方の奪われてしまいます。 

滝川一益は、武田氏を滅亡後の3月下旬から上野(群馬県)の厩橋城に入城し、越後の上杉景勝をけん制しつつ関東や東北の諸大名と外交を展開。5月中旬頃には、かねてから友好的であった伊達政宗の父・輝宗が武田攻めの勝利を祝し信長に大きな馬を贈っています。

河尻秀隆は、武田氏滅亡後その本領である甲斐に入国しますが、治安維持にかなり苦労していたようです。

信長の三男・神戸(織田)信孝を総大将とした四国遠征軍は、四国に向け出陣目前の状況。副将の丹羽長秀や津田信澄・池田恒興・高山右近・中川清秀らも各所領にて四国遠征の準備を終えて出陣の時を待っていました。

羽柴秀吉は備中の高松城を水攻め。援軍に駆けつけた毛利氏と対峙。毛利側から和睦を持ちかけられていたようですが、のらりくらりと交渉を引き延ばし、明智光秀やその後の信長や信忠率いる本隊の援軍を待っていたようです。

徳川家康は穴山信君(梅雪)と共に堺を見物中。6月1日は、堺商人・今井宗久邸や津田宗及で茶会。夜には堺代官・松井友閑邸で再び茶会と茶の湯の一日。この頃、信長が上洛したとの情報を得て(または茶会を開くとの連絡を受け?)、翌朝急遽、京に向け出発。途中で凶報に接することになります。

信長の次男・信雄は領国の伊勢・松ヶ島城で・・・何をしていたのでしょ?

そして信長本人ですが、久々の上洛で来客が殺到。本能寺にて?日中は公家や商人など多くの来客との面会に時間を費やしたようです。夕刻には一通り政務を終え、嫡男・信忠や村井貞勝そして小姓などの側近らと宴を催します。その後、碁の見物。この時、後に不吉の前兆といわれる“三却(サンコウ)”の局面になりますが、これは後の作り話の可能性が高いようです。

信長と信忠はしばし父子水入らず?の会話をした後、夜遅く信忠は宿舎としている妙覚寺に戻ります。その後、信長、就寝。傍らには、のちに『信長公記』の著者・太田牛一に本能寺の変の際の信長の状況を語ったと思われる女性もいたようですが、それは正室・濃姫では無いと思われます。

6月1日夜、丹波亀山城を出発した明智光秀は、恐るべき決意を胸に秘め、眠りについた本能寺の信長に迫っていました・・・

【関連記事】 「本能寺」前夜の三コウ、やっぱり虚構?

暦問題の再燃

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天正10(1582)年6月1日、この日、一度は収束したかと思われていた暦の問題を信長が再び蒸し返します。公家の勧修寺晴豊は日記に「これ信長むりなる事候」と記しています。

この問題は、この年1月に濃尾の暦者の訴えが発端になったようで、東国で多く利用され信長が慣れ親しんだと思われる「三島暦」と朝廷が定める公式の暦「宣明暦(京暦)」の間でこの年大きな矛盾が生じていました。それは三島暦ではこの年12月のあとに閏12月とするのに対し宣明暦では翌年1月のあとに閏1月を入れるというもので、元日が一ヶ月ずれるという大問題でした。

信長は、天下統一と共に多数存在する暦の統一も自分の政権下で成し遂げようと考えたかは不明ですが、この問題を解決しようと動きます。

1月29日、宣明暦を作っていた陰陽頭の土御門久脩と暦博士の加茂在昌を安土に呼び、これに濃尾の暦者も交えどちらの暦が正しいか討論させます。この討論の場には近衛前久も証人として立ち会ったようです。この日、かなり議論されたようですが結論はでませんでした。

2月3〜5日、京の近衛邸や京都所司代・村井貞勝邸で久脩と在昌に儒医で中国古典にも精通している曲直瀬道三も加わり再検討。宣明暦が正しいと判断。この結果を後日信長に報告。この問題は一旦、収束します。

6月1日、この日は日蝕だったようですが、宣明暦はこれを予測できなかったようで、信長は宣明暦に不信感を抱き再び暦問題を蒸し返したようです。

作暦は天皇の大権。これに信長が介入し朝廷との対立が在ったように思われる方もいるようですが、信長は天皇の権限を侵す意図は全く無く、純粋に正しい暦を知りたかった(または正しい暦で統一したかった)だけなのかもしれません。


※主に『検証 本能寺の変』(谷口克広著)を引用・参考にしました。

信長、最後の上洛 〜幻の大茶会〜

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天正10(1582)年5月29日申の刻(午後4時頃)信長は雨の中、京での馬揃え以来1年3ヶ月ぶりの上洛を果たします。

信長に付き従ったのは小姓衆ら30名ほど。下働きの者や女性などを含めても100〜150人程度だったでしょうか?少人数だったため信長は全く無警戒だったように思われますが、京には先行して上洛していた嫡男・信忠の手勢500や京都所司代の村井貞勝の手勢などもいて、本能寺の変の際、二条御所の戦いで信忠の下には信長の馬廻衆などを含めた1000〜1500程度の織田軍が駆けつけたということなので、2000前後の織田兵が信長周辺にいたと思われます。

安土城の留守を任された津田信益(織田信清の子。織田信長の従甥)・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・遠山新九郎・蒲生賢秀・山岡景佐らは中国方面への出陣準備をして待機するよう命じられています。しかし、安土留守居衆にこの後出陣の命が下ることは無く、主の信長が安土城に戻ることはありませんでした・・・

6月1日、信長は上洛に際し持ち運んだ38種もの名物茶道具を、京で挨拶に訪れた公家衆や博多の商人・島井宗室や神屋(神谷)宗湛らに披露。

このとき茶会が催されたという話もありますが、それを明確に示す史料はないようです(『言経卿記』の6月1日条に茶について触れられているのみ)。
実際にはこの日以降(6月4日に信長は中国方面へ出陣予定だったので2日か3日か?)に予定されていた茶会の目録を示しただけで、茶会ではなく面会の際、茶を添えた程度だったようです。
予定していた茶会には家康を急遽、堺から呼び戻して行う予定だったとも伝わり、家康は京へ向かう途中、凶報に接したようです。


名物茶道具の多くが、本能寺の変の際、炎に包まれ灰燼に帰したようですが、『初花肩衝』や島井宗室によって運び出された掛け軸『千字文』など、難を逃れた名物もあったようです。


※歴史読本2008年8月号『幻に終わった最後の茶会』(田中秀隆著)を主に参照。
※茶会に関する内容を6月1日のことに訂正しました。申し訳ありません。

明智光秀、出陣 〜ときは今・・・〜

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天正10(1582)年5月26日、信長の命により羽柴秀吉を援護するため出陣準備をしていた明智光秀は準備を終え坂本城(滋賀県大津市)から中国方面へを出陣。まず、居城の丹波亀山城(京都府亀岡市)に入ります。

27日、愛宕山へ参詣。武神の勝軍地蔵を祀る愛宕大権現に戦勝を祈願。光秀は一晩愛宕神社に籠もりますが、このとき太郎坊の前でおみくじを二度三度引いた(吉凶は不明)といわれており、謀反を決断しかねていたのかもしれません。

『稲葉家譜』に従えば、この日、斎藤利三の一軒について裁定が下ったことになりますが、これから出陣しようとする明智軍に「那波直治の稲葉家返還」と「斎藤利三切腹」をどうして信長が告げたのかは疑問の残るところです。

また、この日付け文書で、京にいた織田信忠は家康と共に堺へ行く予定を取りやめ、上洛する信長を迎える旨、森乱丸に知らせています。
京と至近距離にいた光秀もこの情報を入手した可能性があり、信長と信忠を同時に討ち取る事ができる最大の好機と考えたかもしれません。


28日、光秀は愛宕神社・西坊威徳院にて戦勝祈願の連歌会「愛宕百韻」を催します。
参加したのは光秀のほか行祐(西坊威徳院住職)・宥源(上坊大善院住職)と連歌師
里村紹巴・里村昌叱・兼如や心前・行澄そして光秀の嫡男・十五郎光慶ら9人。


この時の光秀の発句
「ときは今 天が下しる 五月哉」

は多くの方が知る有名な句。

これはあからさまな決起声明。この百韻に集まったメンバーならそれが謀反の決意表明と分かったと思われるそうです。なぜメンバーの一人ぐらいは信長に光秀の不穏な動きを知らせなかったのか?それとも純粋に毛利攻めの事を詠んでいると考えたのでしょうか?

ちなみに百韻を締めくくる、このとき13か14歳といわれる十五郎光慶の挙句
「国々は猶(なお) のどかなるころ」

同日、光秀は亀山帰城。光秀は同日付けで中国地方の武将へ挨拶と中国方面へ出陣の際の協力を要請する手紙を送っており、この時点でも光秀は中国方面へ本当に出陣するつもりだったか、または謀反を決断しきれていなかったのかもしれません。

29日、光秀は中国方面へ武器弾薬などの物資輸送。この月は29日までということで本能寺襲撃の二日前ということになります。

信長と囲碁

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先日のお約束。今回は信長と囲碁について書きたいと思います。

現在囲碁の世界で本因坊戦というタイトル戦がありますが、この本因坊とは、徳川幕府が認めた囲碁の家元四家の筆頭だそうです。
その筆頭・本因坊家の祖は日海という人物で信長や秀吉・家康も囲碁の指南を受けたようです。日海は後に本因坊算砂と名乗ることになります。

天正6(1578)年、囲碁が強いことで話題になっていた日海を信長は引見。その対局を見た信長は、見事な腕前に日海に「名人」の称号を与えます。これが「名人」という言葉の始まりといわれているようです。

そして、この日海が利玄という日蓮宗の僧と運命の対局を行います。
時は天正10(1582)年6月1日夜。そうです本能寺の変の前日のことです。信長の御前で二人は対局を始めます。

この対局中、コウ(説明は省略します)と呼ばれる形が三つもできる三劫(さんこう)という非常に珍しい状態になります。ちなみにこれは数千・数万回に一回という確立らしいです。

この形が出来た場合は無効試合ということで、夜も更けて来たので日海と利玄の二人は本能寺をあとにします。その数時間後、本能寺は明智光秀の軍勢に囲まれ信長は非業の死を遂げることになります。

この出来事をきっかけに「三劫は不吉な前兆」といわれるようになったそうです。
別の説ではこの時代、すでに「三劫は不吉な前兆」という言い伝えがあり、それを恐れた日海と利玄は急ぎ本能寺を離れたという話もあるようです。

いずれにしても「三劫は不吉な前兆」。私もゲーム中、この状況になったら・・・どこに逃げればいいんでしょう??実家?

【参考】※三劫ではありません(笑
日本棋院:囲碁の歴史(4)
■All About:織田信長の命運は囲碁に予言されていた!? 死を呼び込む不吉なゲーム

今回の記事を書くためいろいろ調べていたらこんなの発見!
■信長 囲碁の陣
岐阜新聞とパンダネットが提携して運営していて、ネットで多くの人達と対局できるようですが利用料がかかるそうなので本格的にやってみたい人向きかもしれません。
無料の囲碁対局サイトいっぱいありますからね・・・

旧本能寺の焼けた瓦発見!!

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発掘された旧本能寺・丸瓦(京都市文化財保護課提供)
連日の本能寺ネタですが、今回は大ニュースといってもいいかもしれません!

先ほど(7時台の)NHKのニュースを見ていたら『本能寺の変』の話題が!
何かと思えば“旧本能寺跡の発掘調査で大量の焼けた瓦が発見”されたとのこと。
あっておかしくないのですが、旧本能寺関連の遺物が発見されたのは今回が初めて。大変な発見だったと思います。

今回の調査では瓦のほかにも幅6メートル深さ1メートルにも及ぶ堀や2メートルの石垣も一部検出されたということで、これは旧本能寺が小規模な城郭というか砦のような作りだったことを証明する大発見だと思います。
ちなみに大量の瓦は、発見された堀から出土したそうです。

本能寺の変では、信長自慢の名物茶道具も多数焼失しているので、報道はされていませんでしたが、この瓦類以外に“もしかしたら”名物茶器の破片も発見されているかもしれませんね。

さらに期待してしまう究極の発見が本能寺変で自刃して果てた信長公の遺骨

本能寺焼失後、明智軍の懸命の捜索にもかかわらず信長の遺体は発見されませんでした。
阿弥陀寺の清玉上人がひそかに遺体を運び埋葬したという伝承もありますが、真相は不明。本能寺の猛火で遺体が焼き尽くされ明智軍が確認できなかった可能性もあり、もしかしたら今回の発掘調査で何か発見されたり・・・というのは難しいでしょうか?

あるいは地下道が検出されたり??というのは妄想に近いですね・・

とりあえず、今回の調査で旧本能寺の瓦や遺構が発見されただけでも大成果ですね。
今後の調査(あるのかな?)にさらに期待です。

【詳細記事】
読売新聞 『焼けた?瓦出土、本能寺の変「史実を裏付ける貴重な発見」』

中国新聞 『「本能寺の変」焼け瓦か 初の遺構発見』

※写真は今回発掘された旧本能寺の丸瓦(京都市文化財保護課提供)

『本能寺の変の真相』と『ドラえもん最終話』

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ドラえもん“最終話”
今年もまた6月2日がやってきましたね。信長ファンなら忘れることはない『本能寺の変』が起こった日であり、信長公のご命日。

ちなみに天正10年6月2日は、ユリウス暦では1582年6月21日、現代の暦(グレゴリオ暦)で言うと1582年7月1日だそうです。

※ユリウス暦とグレゴリオ暦の誤差を理解していなかったため、記事の修正前、現代の暦で言うと6月21日と記していました。
ご指摘してくださったk2様、小嶋日向守信房様ありがとうございます。



このブログで連載中の『織田信長史』は、まだまだ本能寺の変にたどり着きそうにありません。
遅筆で申し訳ありません。(ウ〜ン、まさかこんな長期連載になるとは予想していませんでした・・・)

そして、アンケート掲示板 『本能寺の変の黒幕は誰』378名(2007/6/2現在)ものご回答頂きありがとうございます!引き続き多くの方のご参加お待ちしています。

例によって?本能寺の変の詳細については、連載終了後に特集したいと思っていますが、今回は最近問題になっている『ドラえもん最終話』と『本能寺の変の真相』について、個人的に共通点があるような気がするので、その辺についてチョト触れたいと思います。

『ドラえもん最終話』、実は私も昨年暮れくらいだったでしょうか?ネットで掲載されているのを読んだことがあります。
実に良く出来た作品で、原作者の藤子・F・不二雄先生が実際に書いたのではないかと思わせるような感動的な作品でした。

内容は、
電池切れで動かなくなったドラえもん。電池を交換するとすべても記憶がなくなってしまう。ドラえもんが自分たちのことを忘れてしまうのは悲しすぎるということで、のび太が猛勉強して記憶をなくさずにドラえもんが再び動けるようにする。
実は、猛勉強して数十年後、科学者になるのび太がドラえもんの設計者だった。ドラえもんは、再び動き出し、数十年後ののび太と“再会”。
確かこんな感じだったと思います?

ご存知のように原作者の藤子・F・不二雄先生は10年ほど前にすでに亡くなっており、ドラえもんの最終回は存在しません。この話は、ドラえもんの大ファンと思われる“田嶋・T・安恵”という方が描いた想像の最終回。(同人誌として発行されかなり売れたようです。)
この話以外にも多くのファンがそれぞれいろいろな最終回を思い描いていることと思います。

ここまで書いたら“ピン!”とこられた方もいるかも知れませんが、『本能寺の変の真相』についても同様で、現存する史料で読み解く限り、正直なところ本能寺の変は

 「明智光秀が、本能寺に宿泊する織田信長を襲撃して死に追いやった」

それしか確認できません。なぜ謀反に踏み切ったのかその真相は不明で、現在伝わる怨恨説や野望説そして多くの黒幕説などそのほとんどが江戸時代以降の人の“推測”であり“想像”でしかありません。これから先も新たな史料の発見がない限り真相は不明であり、想像だけが語り継がれることになります。

今回の『ドラえもん最終話』も数百年後には“真の最終回”として伝わっているかもしれません。そして、現在も含めこれからもいろいろな人が最終回を創作し、いろいろな“説”が飛び交うのかもしれませんね?まあ、現代は多くの情報が残されているので真相が不明になるようなことはないでしょうが・・・

藤子・F・不二雄先生が『ドラえもんの最終話』を描いていたらどのような内容になっていたんでしょうね?
そして、『本能寺の変の真相』が、解明される日は来るのでしょか?

誰かタイムマシーンを発明してください!!

緊急速報!『新発見!?本能寺の変謎の黒幕』

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ただ今、『新説!?みのもんたの歴史ミステリーSP』(関東地方の方は、テレビ東京系)が放送中ですが、その中の企画のひとつとして 『新発見!?本能寺の変謎の黒幕&金銀10億!?信長の秘宝…呪いの歌』が放送されます。

あっ!今始まりました(PM9:46)

信長大好き人間の織田創としては「信長」「本能寺の変の黒幕」と書かれたら見ない訳にはいきません!

真偽のほどは別として楽しみです。興味のある方は、ぜひご覧ください!

・・・完全にテレビ東京の回し者になってしまっています(汗)

尚、見た感想は後日改めて書くつもりです。(たぶん・・・)

ちなみにその他の企画
▽日本のルーツは古代イスラエル!?秘密組織直撃&ソーラン節の謎(既に終わっています)
▽初公開!青森に海底神殿遺跡&4000年前のピラミッド


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終わっちゃいましたね。(PM10:15)
申し訳ありません。大騒ぎして・・・変の黒幕、あんまり関係なかったですね〜
期待はずれでした・・・やっぱり?!テレ東ですね・・

メインは『光秀の埋蔵金』だったですね。まあ、それはそれで興味ありますが、まあないでしょ(夢幻の如くなり〜♪)

今後も調査していくそうですが、かつての『徳川埋蔵金』みたいに自然大破壊だけはやらないよう願います。
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