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戦国時代

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松永久秀

戦国時代と月食

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まだまだ残暑(というより、夏真っ盛りといった気がしますが・・)厳しいですが皆さんお元気でしょうか?

そういう私はバテバテ状態・・
しかし今日は朝から洗濯だ〜掃除だ〜買い物だ〜となぜか元気。勢いに乗ってめったにやらないブログの1日2回の更新。ついに暑さで頭がおかしくなったようです(笑

そんな暑さの中、暑さを忘れる?天文ショーがあるそうです。
あさって8月28日、6年ぶりに日本全国で皆既月食(月蝕)が観測できるそうです。
月食自体は毎年2回(ない年や3回の年もあるようです)あるそうで、特に珍しくはないようですが、部分月食のこともあり、今回は6年ぶりに日本全国で皆既月食が観測できるということで、非常に楽しみです。夜は晴れてほしいですね!

ちなみに時間は19時37分が最大でこの間、月が地球の影の中に入り込み月は見えなくなるのではなく、赤色に染まるそうです。
ちなみに東京の場合、東の空約15度の方向を見るといいそうです。結構低いので建物や山などない場所から見ないといけないようですね。

詳細⇒倉敷科学センター

さて、このブログは戦国時代が専門。またも無理やり戦国時代と月食の関連を探ってみました・・・が特にいいネタが見つかりません。
唯一、あるのが松永久秀の男女の夜のお話・・ロマンティックなネタから下ネタへと急展開(笑
(以下Hネタが含まれます。R-18?)続きを読む

松永久秀謀反 〜其の三 久秀、爆死〜

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1577(天正5)年10月1日、安土に留まっていた松永討伐軍の総大将・織田信忠は、上杉謙信の退却を確認し、いよいよ松永久秀の籠城する大和・信貴山城へ向け兵を動かします。

10月3日、信貴山城下に迫った信忠軍は、城下町を焼き払い陣を構えます。ここで再び織田軍は久秀に降伏するよう勧めます。
信長は久秀の所有していた名物『平蜘蛛釜』をなんとしても手に入れたかったため平蜘蛛を渡せば命は助けるという条件を出します。

度々名物を献上して信長に許されていた久秀でしたが、この時は首を縦に振りませんでした。

10月10日夕刻、信忠は説得をあきらめ全軍に信貴山城の総攻撃を命じます。
佐久間信盛・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀らが一斉に城へ攻め寄せます。松永軍も必至の反撃を試みますが、多勢に無勢。矢玉も尽き、いよいよ落城の時が迫ります。

命運の尽きたことを悟った久秀は、平蜘蛛釜に火薬を詰め、それに火を放ち爆死します。享年68歳だったといわれ、信長の欲した平蜘蛛をあの世に持っていくことで戦国の梟雄といわれた男、最後の意地を見せつけました。

『信長公記』には、「天守に火を放ち、焼死した」とされるのみで、他の説では、「平蜘蛛釜を叩き割り、火を放ち自害した」というようにも伝わっています。

さらに、久秀の死んだ10月10日は、ちょうど10年前(永禄10年)に奈良の大仏殿を久秀が焼き討ちした日にあたり、『信長公記』の著者・太田牛一はその因果が現れたといっています。さらに偶然か意識したのか不明ですが、総大将を務めた信忠は、この時鹿の角の前立て(兜の前飾り)の兜をつけ戦いに挑んだそうです。
(当時から奈良といえば鹿だったのでしょうか?)

12日、戦勝報告のため信忠は上洛。久秀討伐の功績により、信忠は三位中将に任命されます。三位中将は近衛府の次官であり、通常は四位であるが、この時信忠は三位とされ上級の中将に任官したことになります。

15日、安土の信長にも直接報告をした信忠は17日岐阜へ帰国。見事大役を果たしました。

松永久秀謀反 〜其の二 片岡城、攻略〜

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1577(天正5)年9月27日、織田信忠を総大将とした松永討伐軍が出陣しますが、松永久秀・久通父子が謀反を起こしてから一ヶ月余りも経っていて、電光石火の攻撃を得意とする信長としてはかなりの時間を費やしています。
何とか久秀を説得したい。久秀を殺したくない、そんな気持ちだった様に思います。

信長にとって久秀は特別な存在だったのかもしれません。実は久秀と信長の父・信秀は同じ年、1510(永正7)年の生まれ(諸説あり)。久秀に亡き父の姿を見ていたとは考えすぎでしょうか?
これまでも敵対・離反を繰り返しており、通常であれば一族まで皆殺しにされるのが当たり前なのに、信長は久秀を許しています。

いずれにしても久秀は説得に応ずることなく、信長はやむなく人質を処刑、松永討伐に踏み切ります。

9月27日は出陣した信忠は、上杉謙信の動向を探りながら軍を進めます。上杉謙信が手取川の合戦で織田軍を撃破したとされる日から四日後。しかし、謙信はそれ以上西に進むことはなく、越後に引き上げてしまいます。旧暦の9月下旬は現代の11月中旬。越後では間もなく初雪が降る、そんな季節でした。

信長は、謙信が退くこの機会を伺っていたとも考えられます。

信忠は結局10月1日まで安土に留まることになります。

10月1日、松永久秀の家臣・森秀光と海老名勝正が立て籠もる大和(奈良県)の片岡城(王寺町)に先陣として明智光秀・細川藤孝・筒井順慶それに山城衆が攻めかかります。

この戦いで一番に攻め込んだのは藤孝の子・細川忠興(15歳)と興元(13歳)兄弟でした。
天主からは鉄砲・弓矢を撃ちかけてきますが、矢玉が尽き、刀での切り合いになります。そんな大乱戦の中、細川配下の家臣も30人余り、明智配下が20人余り討ち取られますが、忠興・興元兄弟の活躍もあり、片岡城兵150人余りを討ち取り織田軍は勝利します。

この細川兄弟の活躍に信長は感状を授与したそうです。

この日、安土城から出陣した総大将・信忠は3日に信貴山城下に着陣。
いよいよ信貴山城への総攻撃が始まります。

松永久秀、謀反! 〜其の一 人質の処刑〜

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1577(天正5)年8月17日、松永久秀・久通父子が、本願寺包囲のために任されていた天王寺砦を引き払い所領の大和・信貴山城(奈良・生駒郡)に立て籠もります。

この一ヶ月前には、前述のように上杉謙信が七尾城攻略のために出陣していて、これに対抗するため、8月9日に柴田勝家が織田家の主力を率い加賀へ向け出陣した直後でもあり、久秀は、謙信や本願寺勢と連絡を取り合っての行動だったと推測されます。

松永父子の離反を知った信長は、早速、松井友閑を使者として久秀の元へ派遣し、謀反の理由を問いただします。信長は「思うところを申せば、望みをかなえてやろう」という考えでした。
しかし、久秀は説得に応じようとはせず、出頭することはありませんでした。

信長は翻意しない久秀への見せしめとして、人質となっていた久秀の12歳と13歳の孫(息子という説もあり)の処刑を命じます。
その任に当たったのは、矢部家定・福富秀勝。場所は京にて執り行われます。

京にて、処刑のため、その二人の子を預かっていた村井貞勝は、不憫に思い「宮中に駆け込み、助命嘆願しなさい」そのために「髪を整え、衣服も着替え、いつでも出られるよう」言い聞かせます。

しかし、二人の子は、「身なりの事はごもっともですが、けっして助命はしてくれないでしょう」と覚悟を決めていました。

それでも尚、貞勝は「親兄弟に手紙を書きなさい」と勧めます。
子供たちは「この期に及んで親への手紙は無用」として、その代わり人質の間、世話をしてくれた佐久間盛明に宛て「今までご親切にしていただき誠に有難うございます」と書き送ります。

結局、二人の子供は京・六条河原で処刑されることになりますが、二人は顔色を変えることもなく、武士の子らしく落ち着き、手を合わせ念仏を唱えその短い生涯を閉じます。

その光景を見聞きしたした人々は涙を止められなかったそうです。

9月27日、ついに織田信忠を総大将とした松永討伐軍が出陣します。
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