前回、登場した森乱丸ですが、今回はその略歴について触れたいと思います。

生まれは、信長が足利義昭を奉じ上洛を果たす三年前の永禄8(1565)年で、皆さんご存知のように天正10(1582)年6月2日の明智光秀の謀反に遭い本能寺で討ち死。

前回触れたように「蘭丸」とかかれることが多いですが、『信長公記』をはじめ信頼できる歴史資料では、「乱丸」や「乱法師」と記述されています。諱は一般的には「長定」が有名ですが、自著に従えば「成利(なりとし)」でこれが最も可能性が高いと思われます。他に「長康」という説もあります。

乱丸の父・可成(よしなり)は、信長が弟・信勝(信行)と家督争いをしていた頃、信長方として活躍し、尾張統一に貢献。その後も美濃攻めや上洛戦、対浅井・朝倉戦でも活躍。元亀元(1570)年、信長が摂津の三好討伐出陣中に京へ迫った浅井・朝倉連合軍3万へわずか3000の兵で応戦。あえなく討ち死するも浅井・朝倉軍は苦戦を強いられたため入京に手間取り、その間に信長は京へ帰還し危機を脱します。

可成の死によりわずか13歳の次男・長可(乱丸の次兄)が森家の家督を相続します。ちなみに長男・可隆(乱丸の長兄)は元亀元(1570)年の朝倉・手筒山城攻めで討ち死しています。

『森家先祖実録』によると乱丸が信長に仕えるようになったのは、天正7(1579)年4月上旬とされており、『信長公記』に登場する時期と一致しますが、これを信じると小姓となってすぐに使者として抜擢されたことになりやや無理があるように思います。
これよりもやや早い時期に小姓として仕えるようになり信長の身の回りの世話をしつつ、実務に関しての教育も受けたのではないでしょうか?

『森家先祖実録』は先祖の事績をまとめているため、やや誇張した部分もあると思われ前述の「長定」という名も、この『〜実録』が出典のようで、信長の「長」の字を貰っていたという形にしたかったのかもしれません。

信頼できる史料での乱丸の活躍は主に織田家中や降伏した武将への使者としての役目が多く実戦での活躍はありません。しかし、小姓衆の筆頭ではあったようで、本能寺の変の直前、織田家の“当主”である信忠が父・信長に会うために乱丸に腰を低くして依頼した文書もあるようです。

さらに、小姓衆でありながら岩村城主に任命され5万石の領地を与えられています(他説あり)。結局、領国に赴くことはありませんでしたが・・・。
ただ、岩村城や5万石の領国を与えられたのは、乱丸の活躍というよりは、父・可成や長兄・可隆の戦死に報いるため信長が取り計らったものかもしれません。

それと共に森家からこれ以上死者が出ないようにするためか、乱丸は危険な敵地への使者に出ることは無く(年齢や経験が少ないということもあると思いますが)、弟の坊丸・力丸と共に信長の側近くで仕えることが多かったようです。結局はこれがあだになってしまいますが・・・
余談ですが森家は次男・長可が後の小牧・長久手の戦いで戦死し、六男・忠政(乱丸の弟)が津山藩の初代藩主として生き残ります。

乱丸は逸話の多い武将ですが、そのほとんどが江戸期の創作のようです。実際の乱丸はどのような人物だったのでしょう?