天正10(1582)年3月3日、勝頼と別れ武田信豊は再起を図るべく小諸城を目指します。
この信豊は信玄の弟・典厩信繁の次男で信繁の跡を継いだ人物。同じ官職名・典厩を名乗り、小諸周辺を領地としていたということですが真偽ははっきりしないようです。

小諸城は下曽根信恒(覚雲斎)が城代を務めていました。信豊が、わずか20騎ほどを率い撤退してくると信恒は一行を受け入れ二の丸に通します。

16日(これより1〜2日前か?)信恒は勝頼が自刃して果てたという情報を得たためかどうか不明ですが突如、織田方に寝返り、二の丸を包囲し火をかけます。

小諸城内では下曽根勢と信豊勢の戦いが始まりますが、多勢に無勢。信豊配下の朝比奈与四郎が特に奮戦したようですが、信豊が長男・法輝らと共に切腹して果てると、信豊の姪の婿・百井某ら10名と共に切腹。信豊は享年34とも36歳だったとも伝わります。
※信豊と共に切腹したのは長男の法輝で、次男の雅楽は生き延び現在もご子孫の方がおられるそうです。ご指摘してくださった信豊のご子孫様ありがとうございます。

下曽根信恒は信豊の首を織田信忠の陣に持っていき服従の証とします。ただ、信恒は後日、信豊を騙まし討ちにした不忠者として追放処分されることになります。

信忠は信豊の首実検を終えるとこれを信長のもとへ届けます。

16日、飯田に陣を構えていた信長のもとに信豊の首が届けられます。首と共に信長のもとには仁科盛信の秘蔵の馬や勝頼の馬や刀が届けられ、勝頼の馬は信忠に与えられることになります。

信長は武田勝頼・信勝・信豊・仁科盛信の首を京都で晒すよう長谷川宗仁に命じます。四人の首は三条河原で晒されたのち京都・妙心寺に葬られたそうです。

信豊の死により織田軍の武田攻めはほぼ終了し、甲斐・信濃・駿河・遠江・上野など広範囲にわたった武田領は織田信忠の侵攻わずか1ヶ月半ほどで織田の勢力下になります。

信長は一気に領国を拡大しますが、多くの家臣を旧武田領に派遣することになり信長の周辺は手薄な状況になっていきます・・・