天正10(1582)年4月、旧武田領内各地には六角次郎のように織田軍の追っ手から逃れ潜伏している武田旧臣らが多数いました。織田軍は徹底的な捜査を行い、領内の農民らが武田残党を捕らえてくると褒美を与え、その褒美を目当てに農民らも武田残党に力を貸す者が多かったようです。

このような状況で、諏訪刑部・諏訪采女・長篠満直・段嶺の地侍らが農民に殺されその首は織田軍に引き渡されます。

そんな中、飯羽間右衛門尉(遠山友信)が生け捕りにされ織田軍に引き渡されます。
右衛門尉は天正2年、武田家に寝返り明智城落城のきっかけを作った城主で(本人に裏切りの意思は無かったという説もあります)、明智城落城に際し、坂井越中守の一族が多数殺されたため、その処刑を坂井越中守に任せます。
さらに秋山万可斎・秋山摂津守(秋山信友の一族か?)も捕らえられ、両名は長谷川秀一が処刑します。

4月5日、各地で残党狩りに遭う武田家旧臣がある一方、織田家に従った者の中にも不信感を抱く者が現れ、芋川親正(正親とも)を総大将とした一揆が信濃・飯山で蜂起し飯山城を包囲します。この一揆勢には武田旧臣の他一向宗門徒も多数加わっていたという説もあります。

飯山城を守っていた稲葉貞通はすぐに海津の森長可に報告。長可は早速、稲葉重通・通明・典通や国枝重之を援軍として送り、織田信忠も団忠直を派遣。
織田軍が攻め寄せると、一揆軍の多くは大倉城(大蔵城:長野市豊野・善光寺平北方)に籠城。

4月7日、一揆軍は、形勢逆転を狙い、近くの長沼城(長野市長沼)を奪おうと、8000もの軍勢で城外に打って出ます。森長可はこれを待ち受け攻撃。一揆軍は寄せ集めの兵だったためかあっけなく壊滅。織田軍に追撃され1200名が討ち死に。
大倉城も攻められ、城内に残っていた女・子供1000人余りも犠牲になり、一揆軍の死者は2450余りにのぼり、飯山城を包囲していた一揆軍も逃亡し、一揆は鎮圧されます。ただ一揆軍の総大将となっていた芋川親正は大倉城から脱出し、越後に逃れ、上杉景勝の家臣となります。

飯山の稲葉貞通は、この一揆を防げなかった不手際のためか信忠の陣に戻され、飯山は森長可の軍が駐留することになり、一族の稲葉重通・通明・典通や国枝重之も安土に帰陣することになります。

この後、長可は一揆の再発を警戒し毎日のように山中を巡り人質を提出させ、山中にいる(隠れていた?)農民らに村へ戻るよう命じます。

同じ頃、北条氏政は再び馬13頭、鷹3羽を献上してきますが、信長が気に入るものが無く、すべて返却されてしまいます。