天正9(1581)年11月、四国方面では親織田派の二派、長宗我部家と三好家の対立化激化していました。さらに三好家の中でも三好(十河)存保(織田派)と細川真之(長宗我部派)に分裂しており複雑な状況になっていました。
ちなみに真之と存保は異父兄弟で、兄である真之は、存保の異母兄である三好長治と戦い死に追いやるという関係でした。(兄弟関係が複雑ですね・・)

そんな中、長宗我部氏の圧迫を受けていた、三好家の反長宗我部派の篠原自遁(肥前守)が、羽柴秀吉に援軍を要請。この報告を受けた?信長は、摂津の池田元助(之助:恒興の嫡男)に淡路出陣を命じます。

17日、池田元助と秀吉が派遣した黒田官兵衛(孝高)は淡路島に出陣。淡路島北端の岩屋に上陸します。岩屋城兵は、たいした抵抗も見せず降伏を申し出ます。

両軍の交渉により、岩屋城には一旦、池田軍が駐留します。

その後、淡路島中央の洲本城・由良城も相次ぎ降伏し、淡路島は短期間のうちに織田家の勢力下に組み込まれます。

この織田軍による淡路島出陣は、四国統一を進める長宗我部氏にとって不愉快なことであり、織田家と長宗我部家の対立は徐々に深刻になっていくことになります。

さらに織田家中で長宗我部氏との仲介役を務めてきた明智光秀の立場も揺らぎ始めることになります。


尚、『信長公記』によれば11月20日には池田・羽柴両軍は撤退しているとされていますが、淡路島平定が17〜20日までの数日間で完了したかは定かではありません。