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滝川一益

本能寺の変後の諸将 〜其の六 滝川一益と神流川の戦い〜

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天正10(1582)年6月9日(7日?)、厩橋(群馬県前橋市)に駐屯する関東取次役・滝川一益のもとに信長横死の知らせが届きます。
同じ頃、織田家と同盟関係にあった小田原の北条氏政のもとにも風聞(噂話)として変の知らせが伝わっていたようで、11日付の手紙で氏政は一益に事の真偽を確かめるとともに織田家との同盟関係は維持する内容を書き記しています。

数日後、北条氏は光秀の謀反で信長が死んだとの確証を得ると態度を一変させ敵対行動を取り始めます。一益は配下に加わっていた新参上野の国衆にも信長の死を正直に伝え協力を要請。

16日、上野国では北条軍が倉賀野城(群馬県高崎市倉賀野町)に攻めかかります。これを知った一益は出陣。

18日、滝川軍1万8000と氏政の嫡子・北条氏直率いる北条軍3万は上野と武蔵の国境辺りの神流川・金窪原(埼玉県児玉郡上里)で激突。一益は兵力で劣りながらも北条軍を撃破。(第一次神流川合戦)

19日、態勢を立て直した北条軍は再び滝川軍に攻めかかり戦意の劣る滝川軍は大敗を喫し一益は厩橋城に敗走。(第ニ次神流川合戦)

厩橋に入ってわずか3カ月の一益は、本領・伊勢長島に帰国することを決めると関東諸将から取っていた人質を解放し、別れの挨拶を交わします。関東の将兵の中には涙する者もいたようです。

20日以降一益は信濃の小諸・下諏訪・木曽福島などを経由し帰国の途に就きますが北条軍の追撃や武田の旧臣の蜂起などあり苦難を極めます。

27日、尾張清州に羽柴秀吉・柴田勝家・池田恒興・丹羽長秀らが集まり、信長の後継者をきめる会議いわゆる清州会議が開かれますが、この頃一益は未だ伊勢長島にたどり着いていなかったようで、重臣の地位にありながらこの重要な会議に参加することができませんでした。

以後主導権は秀吉が握り、一益は反秀吉派の柴田勝家らと手を組むも翌天正11年賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れ自害すると秀吉に降伏。秀吉配下として各地に転戦。
天正14(1586)年9月、越前(福井県)にて死去。享年62。

真田昌幸の恭順 〜真田家と滝川家の縁〜

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天正10(1582)年3月下旬、滝川一益は上野(群馬県)箕輪城に入城。その後すぐに厩橋城に居城を移しますが、ここへ近隣の諸将が人質を伴い次々と出仕し、関東を支配する立場になった一益に挨拶をします。出仕した主なも武将は小幡信真・由良国繁・長尾顕長・北条(きたじょう)高広・上田政朝らでしたが、この中に真田昌幸もいました。

織田軍による武田攻めに際し、真田昌幸は主君・武田勝頼に自領の岩櫃城(群馬県・東吾妻町)に入ることを勧めましたが、側近の進言に従い勝頼は小山田信茂の下へ向かい裏切りに遭い自刃して果てたため、織田軍との大きな交戦はなかったようです。

勝頼が自刃して果てた翌日の3月12日には早速、鉢形城(埼玉県秩父郡長瀞町)の北条氏邦から北条氏直の配下に属することを促す書状が届きます。氏直の母は武田信玄の娘の黄梅院ということで、氏直は旧主・信玄の孫。

3月18日、昌幸は北条氏の配下になることを拒否し、織田信長に従う決断をしたようです。

4月に入り昌幸は信長に馬を献上し、更に長女・於国(後の村松殿)を安土城へ人質として送ったようです。
臣従を認められた昌幸は、滝川一益の与力武将となりますが、対上杉の拠点となる沼田城は没収されてしまいます。

この後、信長の天下統一に活躍するはずでしたが、本能寺の変により信長が死去すると北条氏は織田家に反旗を翻し滝川一益の領国に侵攻。神流川の戦いといわれるこの戦いに昌幸は一益の配下として参戦。大敗を喫した一益は本領の伊勢へ落ちることになりますが、その際に昌幸は一益の脱出を助けたそうです。その後、昌幸は主家を北条⇒徳川⇒上杉⇒豊臣と次々と変えることになります。

余談ですが、後に滝川一益の嫡孫にあたる一積 (かずあつ)は、正室に真田昌幸の五女・於菊を迎え長男・一明を儲けます。さらに大坂の陣で討死にした真田信繁(幸村:昌幸の次男)の娘を養女に迎え、蒲生郷喜に嫁がせるなど真田家のために尽力しますが、これは一益が昌幸に助けてもらった恩返しなのかもしれません。

滝川一益、上野国拝領 〜“関東管領”滝川一益の誕生〜

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滝川一益天正10(1582)年3月20日、徳川家中が信長一行を迎える準備に奔走している頃、上諏訪の法花寺の信長本陣には、武田の旧臣が次々と挨拶に訪れていました。

この日、信長の家臣・菅屋長頼の勧めで木曽義昌が挨拶に訪れ信長に馬2頭を献上。取次ぎの滝川一益を介し、信長も刀と黄金100枚を木曽に与えます。さらに木曽の本領に加え、信濃二郡もあわせて与えます。義昌退出の際、信長は縁まで見送ったそうです。

木曽が帰ったあと夕刻には、穴山信君も信長のもとを訪れ、馬を献上。信長も脇差や小刀等を信君に与え本領を安堵します。

信君のあと、今度は小笠原信嶺も挨拶に訪れ馬を献上。信長は矢部家定・森乱丸を使者とし本領安堵の朱印状を小笠原に与えます。

21日、北条氏政は、武田領平定を祝し、使者を送り馬や酒・白鳥を信長に献上。滝川一益が取次ぎを勤めます。

23日、信長は滝川一益を召し寄せ、上野国(群馬県)及び信濃二郡(佐久・小県)を与え、関東八州の警護を命じます。これにより一益は関東管領“的”な立場になります。
信長は、当時としては高齢(この時推定58歳)の一益を遠国上野に派遣するのは気の毒と思いながらも「老後のもうひと働きとして東国支配の取次ぎ役一切を委任する」とし、秘蔵の葡萄鹿毛(えびかげ)の馬も与え「この馬に乗り入国するがよい」と気遣いを見せています。一益は数日後、この馬に乗り?上野国箕輪城に入城することになります。

一益、上野国拝領の際、有名な逸話がありますね。では簡単にご紹介。
信長が「此度の戦で武田攻めで手柄を立てたら、大名物の茶器『珠光小茄子』を与えよう」と一益にいいます。
一益は、信忠の補佐役として、武田攻めの先陣を務め大活躍をし、上野一国と信濃二郡を与えられ、さらに関東管領級の役職も任され大出世を果たします。しかし、約束の茶器がもらえなかったことが悔しかったようで、一益は「領地や役職よりも茶器が欲しかった」と愚痴をこぼしていたとか。

有岡城陥落 〜其の一 滝川一益の調略〜

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天正7(1579)年10月、滝川一益は配下の佐治新介を有岡城の中西新八郎の下へ送り込みます。どのようなやり取りがあったかは不明ですが、中西は織田軍への協力を約束します。

10月15日、中西は城内の足軽大将である星野左衛門尉・山脇勘左衛門・隠岐土佐守・宮脇又兵衛を仲間に引き込み織田方に寝返ります。

寝返った中西らは、滝川一益の軍勢を有岡城の惣構えの中にある上臈塚(じょうろうづか)砦へ引き入れます。この突然の織田軍の乱入に荒木軍は大混乱に陥り、多数が討ち取られ生き残った将兵は有岡城内に逃げ込みます。

さらに織田軍は、城下の屋敷などを焼き払い有岡城を裸城にしてしまいます。

荒木軍の将兵は、絶望的な状況になり、内部崩壊していきます。
ある砦を守っていた渡辺勘大夫は織田方に寝返ろうとしましたが、「不届きである」と切腹を申し付けられます。

野村丹後守が守る鵯塚(ひよどりづか)砦には200人の雑賀衆も加わり織田軍に抵抗をしていましたが、多くが討ち死に。野村は降伏して退去しようとしますが、これも切腹を命じられます。そしてその首は安土城に届けられます。

こうした状況に有岡城からは降伏するので助命して欲しいと言う申し出がありますが、織田軍はこの申し出を拒否し、この後、さらに一ヶ月に渡り攻撃を続けます。

11月中旬になり状況は大きく変わりますが、詳細はまた次回。
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