戦国大名の先駆者といわれる朝倉敏景(孝景)が越前(福井県)を支配するきっかけとなったのが、応仁・文明の乱が勃発する約10年前の長禄2(1458)年7月から長禄3(1459)年8月にかけて越前守護・斯波義敏と守護代・甲斐常治の間で争われた長禄合戦とそれにつづく和田合戦でした。


享徳元(1452)年9月1日、三管領筆頭で越前・尾張・遠江守護の武衛・斯波家当主・斯波義健が18歳という若さで死去。義健に子がなかったため一族の斯波(大野)持種の子・義敏が養子となり家督を相続します。しかし、実権は守護代の甲斐常治が握っており、義敏や堀江利真を筆頭とする越前の国人衆はこれに不満を抱いていました。

康正2(1456)年5月、義敏は守護代の専横に堪りかね幕府に直訴。しかし、この頃各地の守護の台頭に頭を悩ましていた幕府は、その力をそぐため守護代との連携を強める傾向にあり、義敏の訴えは退けられます。

康正3(1457)年1月、義敏は実父・持種と共に斯波家の菩提寺である東山東光寺に籠ってしまいます。

一年余り、緊迫した状況が続く中、幕府は鎌倉公方・足利成氏討伐を計画し、総大将を管領職の義敏に命じるため甲斐常治に和睦を斡旋。

長禄2(1458)2月29日、常治が義敏方の国人の所領を返還することで両者は和睦。義敏は幕府に出仕。

6月、幕府は義敏や甲斐氏に関東への出陣を命じます。義敏は近江まで進軍しますが越前の情勢が不安定なため動けずにいるところ、京にいた常治が病に臥せったとの情報を得ます。

7月、これを好機ととらえた義敏派の越前国人衆が蜂起。長禄の合戦が勃発。しかし、甲斐派の反撃にあい敗退。

8月、義敏は配下の堀江利真に命じ越前・敦賀城を包囲。緒戦、優勢だった甲斐派の勢力は敗北。甲斐一族や配下の者は越前から逃げ出します。

11月、病床の常治は息子・敏光に命じ、同じ家老職の朝倉孝景や織田氏と手を組み反撃に転じますが、堀江利真の頑強な抵抗により越前侵攻は進みませんでした。

長禄3(1459)年、越前の内乱の長期化を危惧した幕府は再び両者に和睦を持ちかけます。甲斐氏はこれを受け入れましたが、義敏は無視して甲斐派を攻撃しますが敗退。将軍・足利義政は関東に出兵せず守護代を攻めたことに激怒し、守護代甲斐氏に味方します。

2月、堀江利真は甲斐派の朝倉教景(敏景の祖父)が守る一乗谷を攻撃。阿波賀木戸口で合戦になりますが教景が利真を退けます。

5月13日、義敏軍は1万もの軍勢で甲斐方の敦賀城を攻撃。守備兵わずか200人ほどでしたが、悪天候のため大敗を喫します。さらに近隣諸国から将軍・義政の命を受けた軍勢が越前に侵攻。朝倉敏景も北ノ庄に着陣。堀江利真は大敗し国外に脱出、斯波義敏も降伏。守護職を解任された上追放され周防の大内氏のもとへ落ち延びます。

長禄合戦は守護代・甲斐常治の勝利に終わりますが、斯波義敏の家臣・堀江利真は反撃の機会をうかがっていました・・・