先日の『天地人』で無事越後に帰国した上杉景勝・直江兼続主従でしたが、上杉氏が上洛したのが、天正14(1586)年5月の事(大まかな日程はmansaku21さんの 『関ヶ原ブログ』に記されています)ですが、それから約2年後、初めての上洛を果たしたのが西国の雄・毛利輝元。

ちなみに輝元は天文22(1553)年生まれ、景勝は弘治元(1556)年の生まれということで、同世代の二人はのちに豊臣政権下で、大老に抜擢されることになります。

ドラマ中で景勝が秀吉はじめ北政所や福島正則その他多くの大名家を訪問してかなり大変な思いをしていましたが、読みかけのまま放置していた二木謙一先生の著書 『秀吉の接待―毛利輝元上洛日記を読み解く』のことを思い出し再読。ドラマに描かれていたことが大袈裟ではないことがわかりました。

上杉家の世話役をドラマでは千利休の娘がやっていましたが実際は石田三成がその役だったようですが、毛利家の世話役は主に黒田官兵衛孝高がやっていたようです。

輝元は天正16(1588)年7月7日朝、安芸の吉田郡山城を出立。海路を200隻の船に3000の将兵で上洛の軍を進めます。16日午後4時頃兵庫。19日午前10時頃大坂に到着。この時、豊臣秀吉は、大坂城ではなく京の聚楽第にいたため輝元一行は京へ向かいます。22日朝6時頃、京へ向け出発。22日の夜は祖父・元就の代から付き合いのある医師・曲直瀬道三邸に宿泊。輝元は道三をとても慕っていたようで京滞在中何度か道三邸に足を運んでいます。23日朝、輝元は京の宿泊所・妙顕寺に到着。24日正午ごろ、輝元は初めて聚楽第で秀吉と対面します。

輝元は、小早川隆景や吉川広家はじめその他の重臣らと共に9月中旬まで京を中心に近江や大和・大坂にも足を運び観光も兼ねた挨拶回りをします。約2カ月余り、ほぼ毎日早いときには朝4時ごろから挨拶回りのために出発、帰りは夜の8時は当たり前。10時や12時頃になることもしばしば。

ちなみに滞在中に挨拶または招待されて訪問したのは、主な人物だけでも大政所(秀吉の母)、豊臣秀長・秀次・秀勝、徳川家康、金吾秀秋(後の小早川秀秋)、宇喜多秀家、上杉景勝、前田利長、前野長康、浅野長政、石田三成、増田長盛、長岡玄旨(幽斎)・忠興、池田輝政、織田信雄・信包、足利義昭、千利休などなど。さらに訪問したかはよく分からないですが、前田利家や島津義弘、龍造寺政家、大谷吉継、立花統虎(宗茂)、大友義統、藤堂高虎、蜂須賀家政、北条氏規らとも顔を合わせ、本願寺顕如・教如父子の訪問もうけています。さらにほとんどの公家衆にも挨拶回り。日記の著者が「記し難し」と書くぐらい多くの有力者宅を訪問。

挨拶だけでなく酒宴や謡・茶の湯、時には蹴鞠の見物などイベントも盛りだくさん。一日に10件くらい回るのは当たり前。その度に刀や馬・銀子などを贈るなど出費も莫大なものでした。もちろんいただくことも多数有りましたが・・

そして宿所・妙顕寺にいるときは来客も多数。全く気の休まる暇がないハードスケジュール。
これは初上洛を歓迎する秀吉の計らいもあったようです。私だったら「ちょっと休ませて〜」と言いたくなる気もしますが、輝元の心境はどうだったんでしょ?

上洛日記には、訪問先や来訪者の記載だけではなく、贈答品の種類やその日の天気、そして秀吉との対面時の大名や公家衆の座配図や装束についてなど詳細が記されていたようで、それを 『秀吉の接待―毛利輝元上洛日記を読み解く』 では、わかりやすく解説してあります。興味のある方は、一度読んでみてはいかがでしょう?


二木謙一著 『秀吉の接待―毛利輝元上洛日記を読み解く』 (学研新書)