天正9(1581)年4月10日、信長は、小姓衆5〜6人を従えて竹生島参詣に出かけます。
この竹生島(ちくぶしま)は琵琶湖北部にある小さな島で神の住む島として古くから信仰の対象となっている島でした。

安土から馬に乗って出発した信長一行は、羽柴秀吉の居城・長浜城に立ち寄りそこから船に乗り換えて竹生島へ向かいました。その距離片道15里(約60km)。

安土に残った女房衆(信長の身の周りの世話をする女性たち)は、往復30里(約120km)の遠路だから信長は長浜城に宿泊するだろうと考え、信長の留守をいいことに自由に過ごしていました。

しかし、女房衆の予想に反し信長は驚くべき速さでその日のうちに安土城に帰還します。
のちに秀吉が『中国大返し』として高松−京都間、約235kmを約7日間かけて移動したことが驚くべき速さと言われることを考えると、信長一行は少人数だったという利点も当然ありますがかなりの速さといえると思います。

信長の予想外の早い帰城に安土城内は大騒ぎになります。女房衆の中には二の丸に出かけている者もいましたが、桑実寺(蒲生郡安土町:安土山の隣接の繖山(観音寺山)の中腹にある寺)へ薬師参りに出かけているものもいました。

この状況を見た信長は、怠けていたものを縛り上げます。桑実寺へ出かけた者たちは信長の罰を恐れ、寺の長老に助けを求めます。

長老は、「お慈悲を持って女房衆をお助けください」と願い出ますが、かえって信長の怒りを買ってしまい女房衆と共に長老まで処刑されることになってしまいました。