天正7(1579)年7月上旬(6下旬か?)、安土の信長の下へ家康の長男・松平(岡崎)信康に嫁いだ娘・五徳(徳姫)からの書状が届きます。

その内容を見た信長は、衝撃を受けます。それは12ヶ条からなる密書で、夫・信康および姑の築山殿(徳川家康の正室)が武田勝頼へ内通しているという重大事を含むものでした。


徳姫は、信長の長女で永禄2(1559)年10月誕生。信康に嫁いでからは徳姫または岡崎殿と呼ばれていたようです。

一方の松平信康は家康の長男として永禄2(1559)年3月に誕生。家康が浜松に移った後、岡崎城主となり岡崎三郎信康と名乗ります。ちなみに徳川姓を名乗ったことはなかったようです。

二人は同年で、織田・徳川同盟(清洲同盟)成立の翌年、永禄6(1563)年、わずか5歳で婚約永禄10(1567)年5月27日、9歳で結婚します。後に二人の娘を授かり仲が良かったようです。

しかし、二人の結婚を快く思っていなかったのが信康の実母で家康の正室である築山殿でした。築山殿は今川義元の姪に当たり、今川家の重臣・関口刑部少輔の娘。

叔父の義元を討った織田信長の娘と最愛の息子が結婚するのは当然、我慢ならなかったものと思われ、徳姫と築山殿の関係は悪かったようです。


天正7(1579)年6月初旬、仲が良いと思われていた信康と徳姫に夫婦喧嘩(よりもっと重大事か?)があったようで、6月5日、家康が浜松城から岡崎城まで足を運び仲裁したそうです(『家忠日記』)。

この後、徳姫は冒頭で触れた12ヶ条の密書を信長の元へ届けることになります。
その内容の一部は、

「築山殿が私(徳姫)と夫・信康の仲を引き裂こうとしている」

「女子しか産めないことを理由に武田家ゆかりの女性を信康の側室に迎え武田家への内通を勧めている」

「武田勝頼からの手紙を見たが、信康へ武田家に味方するよう依頼しており、築山殿も信康の説得をするに違いない」


など、重大事が書かれていたようです。

7月16日、信長は、家康の重臣・酒井忠次を安土城に呼び寄せ真偽のほどを問い詰めます。