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織田信忠

織田信忠の一夜城の遺構が残っていたとは・・・

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今日が仕事始めだったんですが、月間計画がすごいことになっており初日から憂鬱。
更新が滞ることが多くなりそうです・・・あっいつものことか(汗
姉妹サイト【戦国ウォーカー】のニュースチェックもおろそかになりそうですがお許しください!

さて、今日もいつものように戦国ニュースをチェックしていたら信長ではなく珍しく嫡男の信忠関連の記事を発見!

「市道拡幅か遺跡保存か 伊那 「一夜の城」 土塁、解体の危機」 (中日新聞:1/5)

天正10(1582)年3月1日、武田攻めの際、信忠が本陣を置いた貝沼原の一夜城跡の遺構が書いたの危機だとか。

武田勝頼の弟・仁科盛信や保科正直が立て籠もっていた高遠城攻めのため、この貝沼原には武田方から寝返った小笠原信嶺が案内役となり信忠はじめ河尻秀隆や毛利秀頼・盛長可・団忠直らが集結。翌日には織田軍は高遠城を総攻撃。盛信以下武田の将兵400余りが討ち死にする激戦が交わされています。

織田信長史 「武田家滅亡 〜其の三 穴山梅雪の裏切りと仁科盛信の死〜」

この貝沼原が伊那の一夜城と呼ばれていたとは知りませんでしたが、記事によると「名前の由来は一晩で造り上げたとも、織田勢の進軍で陣を敷いたのが一晩だけだったなど諸説ある。」となっており、『信長記』を読む限りは一晩だけ陣を敷いただけ説になりそうですがどうなんでしょ?

遺構自体は、土塁がわずか残るのみのようですが、信長の居城だった清須城跡も石垣がわずか残るのみですが保存されており史跡として立派な役割を果たしているので、伊那の一夜城も信長ファンとしては残してほしいな〜と思います・・・

嫡男・信忠への天下継承

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天正10(1582)年3月24日、旧武田領内各地で駐留している各部隊に兵糧を支給することを決め菅屋長頼に兵員名簿の作成を命じ、深志城(松本城)にて兵の人数に応じ兵糧を支給します。

25日、上野(群馬県)の小幡信真(憲重の嫡子。信実とも)が甲府の織田信忠のもとを訪れ恭順の意を表します。小幡は、滝川一益の与力に付けられ、上野への案内役を命じられます。一益は、小幡と共に早速、新領国である上野に向け出発します。

26日、再び北条氏政が馬のエサとして米1000表を諏訪の信長に献上。信長への徹底恭順の意を示します。武田家が滅亡し、次の標的になるのをかなり恐れていたように思います。

そして同日と思われますが、信長は武田攻めに際し、名城として名高い高遠城を攻略した信忠に褒美として梨地蒔絵拵えの刀を与えると共に「天下支配の権も譲ろう」と伝えます。天正3(1575)年にすでに家督は譲っていたものの実権は信長が握っていました。しかし、武田攻めは、一益ら重臣の補佐があったとはいえ、基本的に信忠指揮の下遂行され短期間で勝利し、信長も信忠の成長を喜ぶと共に最も脅威を感じていた武田家を滅ぼしたことで、信忠に天下を任せても安心というような気持ちになったのかもしれません。
甲府でこの褒美の品を受け取った信忠はすぐさま信長に礼を述べるため出発。

28日、信忠は諏訪の法花寺に到着。早速、信長に挨拶したものと思われます。
この日は一時的に豪雨が降り、風の強い非常に寒い日だったようで各地で凍死する者が多数出るという天気でした。
そんな状況の中、信長は富士山を見物しながら帰国の途につくことを告げ、諸将のみ信長と同行するよう命じ、その他の兵たちに帰国の許可を与えます。

29日、多くの兵がそれぞれ帰国の途につきます。

まだ不安定な旧武田領内にいる状況で、配下の兵を帰国させ、さらに富士山を見物しながら帰国するという信長の行動を見ると、信玄没後も武田家は信長にとって最大の脅威であり、その滅亡は信長に天下統一を成し遂げたような、そんな気持ちにさせたのかもしれません・・・?

嫡孫・織田三法師秀信、誕生

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織田秀信
天正8(1580)年、この年何月かは不明ですが、信忠に長男・三法師が誕生します。信長にとって初の男子の孫でした。
後に秀吉の「秀」の一字を与えられ秀信と名乗ることになります。

ちなみに信忠は正室になるはずだった武田信玄の娘・松との婚約が両家の関係悪化から破談し、その後正室を迎えた様子はなく、“この時点では”三法師が嫡孫だったと考えていいように思います。

母は、信忠の側室・塩川長満(国満か?)の娘という説が有力と思われますが、他に森可成の娘ともいわれ、また意外な説としては、武田信玄の娘で信忠の婚約者であった松ともいわれているようです。(ウィキペディア参照)

塩川(塩河)長満と国満はいろいろな文献で混同されることが多いようで、親子関係なのか親戚関係なのか不明ですが、同一人物という見方もあるようです。
ちなみに国満は荒木村重の娘婿になっています。村重と信長はほぼ同年(1才差)なので、年齢的に信忠の側室となった女性は村重の娘を母とする子ではないと思いますが・・・?

三法師は、2年後の天正10年、本能寺の変により信長・信忠が死去したため信雄と信孝が家督相続を争ったいわゆる清洲会議の際、秀吉に担がれわずか3歳で織田家を継ぐことになり、悲運の生涯を送ることになります。

御着城攻め

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天正7(1579)年4月26日、荒木村重の籠城する有岡城を包囲中の信長は古池田の本陣近くで、再び“ひとあばれ”します。
現代の鬼ごっこのようなお遊び?に、この時は、公家で本能寺の変の黒幕説までうわさされる近衛前久と元管領家で信長の妹婿である細川信良(昭元)も乗馬組として参加します。この日の“戦い”は徒歩組が乗馬組を引きずり回し、楽しんだようです。

このような状況の下、播磨の別所長治が籠城する三木城攻めで孤軍奮闘する羽柴秀吉を援護するため織田信忠が出陣します。

信忠は播磨の三木城周辺六ヶ所に砦を築き、その後、小寺政職の御着城(兵庫県姫路市)を攻撃します。ちなみに政職は以後も織田方の攻撃に耐えますが、別所氏の三木城と荒木氏の有岡城が落城すると天正8年に秀吉軍の総攻撃を受け落城します。

28日、信忠軍は野瀬(大阪府豊能郡)に出陣し、農作物をなぎ倒します。
この攻撃は、石山本願寺に流入する食料を封じる狙いがあったのかもしれません。

29日、信忠は、信長に戦況報告を終えるとそのまま岐阜へ帰国します。
同日、越前衆と丹羽長秀は別所方の淡河定範が守る淡河城(神戸市北区)に対する砦を築き、信長への報告を終えると、越前衆は加賀の一向一揆に備えるため帰国します。

丹羽長秀はそのまま有岡城包囲軍に残り、蒲生氏郷や蜂屋頼隆と共に塚口(尼崎市)に陣取ります。
その他、有岡城の周辺には細川藤孝・忠興・興元父子、中川清秀や氏家直通・稲葉貞道(一鉄の嫡男)さらに塩河国満や滝川一益・高山重友・池田元助(恒興の嫡男)など多くの武将が加わり、各地に砦や柵・堀などを築き完全に包囲していました。

有岡城包囲はさらに長期にわたることになります。

神吉・志方城攻め 〜其の一 苦戦する織田軍〜

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上月城の運命は前述のような悲惨な結果となりましたが、やや話を戻して上月城から撤退した秀吉と神吉・志方城を攻略するべく布陣を整えた織田信忠に触れたいと思います。

1578(天正6)年6月26日、上月城から撤退した秀吉は書写山(姫路市)まで軍を進めます。
一方の織田信忠は、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀に命じ神吉城をけん制する為、三日月山(佐用郡三日月町)に登らせます。

27日、神吉城に総攻撃を仕掛けます。神吉城には信忠以下織田(神戸)信孝・林秀貞・細川藤孝・佐久間信盛が布陣。先陣として滝川一益・稲葉一鉄・蜂屋頼隆・筒井順慶・武井舜秀・明智光秀・氏家直通・荒木村重らが攻めかかります。

一方、志方城の備えとして織田(北畠)信雄以下丹羽長秀・若狭衆があたります。

織田方の総攻撃に対し、神吉城兵の反撃も凄まじく簡単には落城しませんでした。
織田方にも死傷者が続出、信孝も手に深手を負います。

翌日も攻撃を続け、堀を埋め立て築山を築きさらに攻撃を加えます。

その頃秀吉は但馬に立ち寄り、竹田城に弟・羽柴秀長を入れると再び書写山に布陣。

神吉城では苦戦が続き、織田(長野)信包、さらには志方城に備えていた丹羽長秀以下若狭衆も動員し攻め立てます。
こうして大砲を打ち込んだり坑夫に隋道を掘らせて攻めるなど昼夜を問わず攻め続けます。

凄まじい攻撃に神吉城からはついに詫びを入れ降伏を申し出てきますが、信長の命もあり聞き入れられず、織田方の攻撃はさらに激しさを増すことになります。

動き出す織田本隊 〜毛利軍との激突の時迫る〜

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1578(天正6)年4月4日、謙信の死から二十日余りのこの日、謙信の死を確信したのか、信長は織田信忠を総大将とした尾張・美濃・伊勢の軍勢、および五畿内の織田軍に大坂攻めを命じます。従った武将は北畠信雄や神戸信孝・津田信澄・長野信包ら織田一門衆や滝川一益・明智光秀・丹羽長秀らでした。

5日、6日のわずか二日間の総動員で、大坂の本願寺領の麦畑をなぎ倒してすぐに退却したようで、本願寺兵糧攻めの一環としての出陣だったようです。

7日、信長は父・神保長職と対立し越中から追放されていた神保長住を二条新邸に招き、佐々長秋(成政の弟)・武井爾伝を通じ黄金黄金百枚などを与え、謙信死去に伴う越中攻めについて協議します。
この話し合いで、神保長住の護衛に佐々長秋と飛騨の三木自綱を加える形で越中攻めの準備が進められます。

9日、信長は、突如、右大臣・右近衛大将の官を辞します。
※この件に関しては『信長公記』には触れられていないので、実際にこのタイミングで辞任したかはわかりません。

10日、丹波へ向け、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀らが攻め入ります。この時の標的は園部城の荒木氏綱。城に籠もり抵抗を続けますが水路を絶たれ援軍も望めない状況に陥り氏綱は降伏。わずか二週間の抵抗で、城を明け渡し退去します。

4月22日に京から安土に帰国していた信長ですが、27日慌しく再度上洛することになります。

既に書いたように毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が率いる毛利軍が動き出し播磨の上月城を包囲したという報告が入ったためでした。

信長は、自らが出馬し「東国の織田と西国の毛利と直接切り結び、必ず打ち勝ち東西の境界に決着をつける!」と言い出しますが、佐久間信盛や滝川一益・明智光秀らが「まずは私どもが出陣し現状を見定めます」と進言します。

この結果、29日先陣として滝川・明智・丹羽の軍勢が出陣。
5月1日、信忠を総大将とした信雄・信孝・信包および細川藤孝・佐久間信盛らの本隊が出陣。

信忠軍と秀吉軍をあわせた4〜5万の大軍勢と毛利輝元・吉川元春・小早川隆景率いる毛利軍3万との対決のときが迫ります。
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