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戦国時代

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織田信長

鳴かれて困る信長と秀吉

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hooonnji-kakejiku-3「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」  ・・・織田信長
「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」 ・・・豊臣秀吉
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」 ・・・徳川家康


三英傑の性格を例える有名なホトトギスの句ですね。
さて、今回は本当に?鳴かれてしまい困ってしまった信長と秀吉のエピソードを紹介します。

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信長とスティーブ・ジョブズ

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Steve Jobs-001今日(現地時間12日)、iPhone5が発表されましたね。管理人、iPhoneユーザーでもなくgoogleのサービスを主に利用しているので、google派ではありますが、それでもやはり新型iPhoneは気になるところ。スマホを欲しいと思いつついまだガラケーなので次の機種変時は?

さて、あと3週間ほどで10月5日。アップルの元CEOのスティーブ・ジョブズ氏が亡くなって一年になりますね。アップル製品をまったく持っていない管理人ですが、スティーブ・ジョブズ氏の言動には魅かれるものがありました。亡くなった後、NHKをはじめいろいろなメディアで特集され、それを見たり読んだりしてあらためて感じたのが「信長と似ている」ということでした。

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信長の正室・濃姫が主役のSPドラマが放送決定!

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速報!
濃姫が主人公となるスペシャルドラマが3月に放送されることになったんですね。濃姫役は久々のドラマ主演?の観月ありささん。そして気になる信長役は、大河ドラマ『天地人』で真田幸村役でおなじみの城田優さん。ちょっと信長のイメージとは違いますが取り合えず頑張ってもらいたいものです。続きを読む

信長と平清盛

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遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
6カ月も更新休止状態ですいませんでした。今年も更新は少なくなると思いますがよろしくお願いします。

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安土城炎上 〜天下を継ぐ者〜

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天正10(1582)年6月2日辰の刻(午前8時頃)、洛中で生き残った織田家臣の捜索を命じ、その日のうちに近江・勢田(瀬田:滋賀県大津市)に軍を進めます。

勢田城主の山岡景隆に降伏を勧めますが、景隆は信長の恩を理由に拒否。近江と京を結ぶ重要な橋である勢田橋と居城を焼き払い退去。
この景隆の行動は光秀の作戦を大きく狂わせ、近江進軍が難航したためその制圧に手間取り、備中高松から羽柴秀吉が光秀討伐に引き返してくる時間を与えてしまいます。

6月13日、山崎の合戦において光秀は秀吉軍に大敗。光秀は再起を図ろうと居城坂本に向かいますが、その途上土民の手により殺害されたといわれています。享年55とも67とも伝わります。

14日、本能寺の変後、安土城を守備していた明智秀満は、主君・光秀の敗報を聞き坂本城へ向かいます。

15日、安土城天主が炎上。この原因は、明智秀満軍の放火説や秀満退去後安土に入った信長の次男・信雄による放火説、または城下の火災の火が燃え移った説など諸説あり不明ですが、信長の天下の象徴であった安土城の天主閣は、信長同様炎と共に地上から姿を消します。完成してからわずか3年のことでした。

27日、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興の間で織田家の家督相続と遺領配分を決める清州会議が開かれます。この中で勝家が推す織田信孝と秀吉が推す信長の嫡孫である三法師(のちの秀信)のどちらにするか意見が分かれますが、光秀討伐の功績があった秀吉はこの会議で主導権を握っており、織田家の家督は秀吉が主張する三法師が相続することになります。この時、三法師わずか3歳(数え年)。

三法師は安土城を相続。しかし安土城は焼失していたため復旧工事が進められ仮館完成までの間、美濃を相続した信長の三男・信孝の居城・岐阜城に預けられます。

10月、信長の葬儀をめぐり秀吉と信孝は対立。

12月、信孝は挙兵しますが秀吉に敗北。


12月21日、三法師は岐阜城から仮館の建つ安土城に移ります。この後、三法師は秀吉に実権を握られ、天下統一事業は秀吉の手により成し遂げられます。

                                     【織田信長史・完】


〜あとがき〜
2005年2月連載開始から3年9か月。途中中断もありましたが長期にわたる連載を応援してくださった読者の皆様、そして同盟国の皆様ありがとうございました。
ブログは今後も今まで同様のんびりペースで更新していくつもりなので引き続きよろしくお願いします。

恵林寺焼き討ち 〜快川紹喜の焼死〜

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天正10(1582)年4月3日、信長が台ヶ原(山梨県北巨摩郡)で富士山を眺めている頃、同じ甲斐国内にある恵林寺では悲惨な出来事が起きます。

武田家が織田軍に敗れたため、武田領を拠点に反信長の活動を続けていた六角次郎が恵林寺に逃げ込みます。恵林寺の快川紹喜は織田軍の引渡し要求を拒否します。

六角氏は、永禄11(1568)年、信長が足利義昭を奉じて上洛した際、敵対しますが敗北。その後も次郎は父・六角義賢(承禎)と共に各地で反信長の活動を展開し、父・承禎は元亀元(1570)年頃、織田家に降伏し数年間、捕らわれの身となったようですが、次郎は逃げ延び武田家に身を寄せていました。
この次郎は一般に義治のことと考えられているようですが、その弟・義定(賢永)という説もあり、兄弟そろって武田家に身を寄せていたのかもしれません。

このように織田家に敵対し続けた六角氏を匿うことは許されることではなく、信長に代わって旧武田領の戦後処理を任されていた嫡男・信忠は、恵林寺を成敗することを決め、織田九郎次郎(津田元嘉)・長谷川与次可竹・関長安・赤座永兼の4人を奉行とし恵林寺に向かわせます。

4人の奉行は、恵林寺の山門に寺内の僧ら150人余りを集めると二階に押し込み、廊下から山門にかけ刈り取った草を積み上げるとそこに火を放ちます。

山門は炎に包まれ、閉じ込められていた多くの僧がわめき苦しみ暴れる中、ひとり快川紹喜だけは、冷静沈着、じっと座ったまま身動きせず炎に包まれ亡くなります。
最後の言葉として伝わる「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」はこの時の言葉ですが、朝廷から国師号(天皇の師への尊称)を与えられた名僧の見事な最後でした。

ちなみに快川紹喜は信玄の葬儀も執り行った僧でもあります。そして美濃土岐氏の出身でもあり、同族の明智光秀は、この焼き討ちがきっかけで本能寺の変を起こしたという説もあるようです。

150人余りが焼き殺された恵林寺の焼き討ちですが、きっかけとなった六角次郎はこのときも逃げ延び、義治は信長死後秀吉に仕え、義定はその後どのように過ごしたか不明ですが、慶長年間に豊臣秀頼との面会記録があるようです。

余談ですが、武田家には六角氏以外にも信長と敵対した武将が多く逃げ込んでおり
天正10(1582)年3月7日付け松井友閑宛織田信長黒印状写には尾張統一戦で信長と戦った岩倉の織田氏(信賢?)と犬山の織田氏(信清:犬山銕斎)、さらにもと美濃守護の土岐頼芸や若狭の武田五郎がいたようですが、両織田氏や土岐頼芸は許されますが、武田五郎は六角次郎と共に殺されたことになっているようです。ただ次郎は逃げ延びたようなので、武田五郎に関しても真相は不明です。

信長の甲斐入り 〜諸将の穏やかなひと時〜

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天正10(1582)年4月2日、信長は信忠に信濃・諏訪への駐留を命じると自らは予定通り帰国の途につきます。この日は一時的に雨が降るような天気でしたが諏訪を出発。
甲斐(山梨県)を経由し東海道沿いに安土への帰国を計画していた信長一行は甲斐の台ヶ原(大ヶ原:北巨摩郡白洲町、長野県との県境付近)に到着。上野出発前の滝川一益指揮の下、この地には信長一行数百人が宿泊するための宿舎が建設され、食事の用意なども準備が進められており、信長は盛大な接待を受けたようです。

3日、台ヶ原を出発して五町(約550m)進んだところで信長一行は真っ白に雪が積もった美しい富士山を山間から見て、皆が感激したそうです。

この後、信長は新府城の焼け跡を検分。古府(甲府)に入ると、信忠が武田信玄の館跡(躑躅ヶ崎館?)を整備して建設した仮御殿に宿泊。ここに4月10日まで滞在し戦後処理を進めることになります。

この間、丹羽長秀・堀秀政・多賀常則の三人は信長から休暇を与えられ、草津(群馬県・草津町)に湯治に出掛けるという、珍しくのんびりとした時を過ごします。


余談ですが、この草津温泉には、のちに近衛前久(龍山)や秀吉の妹で家康の正室となる朝日姫さらに本願寺の顕如や教如・佐起、豊臣秀次や大谷吉継や前田利家らが訪れており、古くは鎌倉幕府の創始者・源頼朝も訪れたそうです。

※参照⇒草津温泉公式サイト 『湯Love草津』> 訪れている著名人

真田昌幸の恭順 〜真田家と滝川家の縁〜

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天正10(1582)年3月下旬、滝川一益は上野(群馬県)箕輪城に入城。その後すぐに厩橋城に居城を移しますが、ここへ近隣の諸将が人質を伴い次々と出仕し、関東を支配する立場になった一益に挨拶をします。出仕した主なも武将は小幡信真・由良国繁・長尾顕長・北条(きたじょう)高広・上田政朝らでしたが、この中に真田昌幸もいました。

織田軍による武田攻めに際し、真田昌幸は主君・武田勝頼に自領の岩櫃城(群馬県・東吾妻町)に入ることを勧めましたが、側近の進言に従い勝頼は小山田信茂の下へ向かい裏切りに遭い自刃して果てたため、織田軍との大きな交戦はなかったようです。

勝頼が自刃して果てた翌日の3月12日には早速、鉢形城(埼玉県秩父郡長瀞町)の北条氏邦から北条氏直の配下に属することを促す書状が届きます。氏直の母は武田信玄の娘の黄梅院ということで、氏直は旧主・信玄の孫。

3月18日、昌幸は北条氏の配下になることを拒否し、織田信長に従う決断をしたようです。

4月に入り昌幸は信長に馬を献上し、更に長女・於国(後の村松殿)を安土城へ人質として送ったようです。
臣従を認められた昌幸は、滝川一益の与力武将となりますが、対上杉の拠点となる沼田城は没収されてしまいます。

この後、信長の天下統一に活躍するはずでしたが、本能寺の変により信長が死去すると北条氏は織田家に反旗を翻し滝川一益の領国に侵攻。神流川の戦いといわれるこの戦いに昌幸は一益の配下として参戦。大敗を喫した一益は本領の伊勢へ落ちることになりますが、その際に昌幸は一益の脱出を助けたそうです。その後、昌幸は主家を北条⇒徳川⇒上杉⇒豊臣と次々と変えることになります。

余談ですが、後に滝川一益の嫡孫にあたる一積 (かずあつ)は、正室に真田昌幸の五女・於菊を迎え長男・一明を儲けます。さらに大坂の陣で討死にした真田信繁(幸村:昌幸の次男)の娘を養女に迎え、蒲生郷喜に嫁がせるなど真田家のために尽力しますが、これは一益が昌幸に助けてもらった恩返しなのかもしれません。

旧武田領の知行割と国掟

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天正10(1582)年3月29日、信長は諏訪・法花寺にて旧武田領の国割を以下のように発表。

甲斐国(山梨県)・・河尻秀隆。ただし、穴山信君の所領は安堵しているので代替地として信濃・諏訪一郡を与えられます。

駿河国(静岡県)・・徳川家康。

上野国(群馬県)・・滝川一益。一益はさらに信濃の内、小県・佐久も与えられます。

信濃国(長野県)・・高井・水内・更科・埴科の四郡は森長可に与えられ川中島の海津城に入城。木曽義昌は木曽谷の二郡を安堵の上、安曇・筑摩を加増。伊那を毛利秀頼。

河尻秀隆の甲斐移封に伴い空白となった美濃国(岐阜県)岩村には団忠直

同様に森長可の信濃移封に伴い空白となった美濃国の金山(兼山)・米田島には弟の森乱丸(成利・長定とも)。弱冠18歳で5万石の大名になりますが、小姓として信長の側に仕えており二ヵ月後に本能寺の変にて討ち死にしたため領国に入ることはなかったようです。なお岩村に関しては忠直ではなく乱丸に与えられたという説もあるようです。

信長は、この国割と共に甲斐・信濃両国に11か条の国掟を発令。
この中で不当な税徴収の禁止や緒城の修築・武器や兵糧の備蓄、領内の道路整備などを命じています。

上様の“御成” 〜大わらわの徳川家〜

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天正10(1582)年3月19日、信長が上諏訪の法花寺に着陣した頃、徳川家中にも信長の安土への帰国に関する情報がもたらされます。

17日に徳川家康は信長に挨拶に出向いているようで、この日かそれよりも少し前に帰国の日程が告げられたのかもしれません。

19日の『家忠日記』によると、信長が三河経由で安土に帰国するということで、酒左衆(酒井忠次配下の衆)に本栖(山梨県西八代郡上九一色村)へ集まるよう命じられます。

23日、酒井配下に属していた家康の家臣・松平家忠は、本栖へ行き、25日から信長一行を出迎えるための御茶屋建設に従事することになります。

家忠自身、このあとも4月5日から女坂茶屋建設、さらに9日には女坂の道路?普請作業に従事しており、徳川家臣団及び多くの領民らは同様に信長一行を出迎えるための準備に大わらわの日々を送っていたものと思われます。

徳川家臣団が行った普請作業は御茶屋の建設の他、陣屋や御厩の建設それ以外にも道路の整備や警備さらに信長一行をもてなす料理の準備など多岐にわたり、肉体的にも精神的にも休まることのない日々を過ごします。

徳川家臣団が信長のことを“上様”と呼んでいたかは不明ですが、『家忠日記』では信長の行動を“御成”と表記しており、この言葉は征夷大将軍に用いられる言葉のため家忠はじめ多くの者が、この時期すでに信長のことを“将軍的”な存在として見ていたものと思われます。

こののち信長が甲府を立つのは、4月10日のことになりますが、家康はじめ徳川家臣団の徹底した心遣いは信長を大喜びさせることになります。

安土城は一度倒壊していた?!

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昨日の『朝日新聞』朝刊に掲載されたそうですが、そのWEB版ニュースを入手。

『安土城、焼失は2代目? 炎上の4年前「倒壊」の古文書』(asahi.com)

記事によると
「松雲公採集遺編類纂」の中の「東大寺大仏殿尺寸方并牒状奥ニ私之日記在之」のくだりに、天正6(1578)年5月の項目があり、「アツチ之城天主タヲレ畢 人民死畢」(安土城の天主が倒れ、人々が死んだ)と書かれていた

そうです。

今まで知られていなかった古文書で『信長公記』にももちろん“倒壊”したという記述はありません。

倒壊したとされる天正6(1578)年5月の件で『信長公記』に記されているのは、
「5月11日から13日にかけて豪雨が降り続き上京の舟橋の町が押し流され、おぼれて多数の死者が出た」

「5月27日信長は安土の洪水の様子を視察のため帰国」という記述があります。

しかし、6月には上洛して祇園会を見物したり、鷹狩りをし、6月21日には安土に帰城しています。

記事によれば同時期に三河で大地震があったそうですが、大雨や地震が原因で安土城が倒壊していれば、『信長公記』はもちろん多くの公家などが日記を書いていたのでその事実を書いていてもおかしくないのに誰一人書き記していない点が疑問に思えます。

安土城の発掘に携わっている滋賀県文化財保護協会の木戸雅寿・調査整理課長も、文献と考古学の双方の見地から、「(倒壊は)あり得ない。記述は誤記と言わざるを得ない」(記事抜粋)

と語っているそうで、 今回のニュースはこれから研究者や戦国ファンの間でいろいろ議論が繰り広げられそうな予感。

『本能寺の変の真相』や『桶狭間合戦は奇襲だったか』『長篠・設楽原の合戦尼鉄砲三段構え』などとともに“信長の謎”がまた一つ増えましたね。

『誰が信長を殺したのか』などの著書で有名な桐野作人先生のブログ『膏肓記』によれば今月22日発売の『歴史読本』11月号で詳細な記事が掲載されるそうです。興味のある方は、『歴史読本』も読んでみてはいかがでしょう?

ブログでは、今回の記事に関して早速、議論が白熱しています。
戦国ファンの立場から記事やコメントを読ませてもらっていますが、多くの研究者の意見が読めて勉強になります。書籍や新聞記事を読む以上に楽しめるかもしれませんよ。

信長と相撲

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陣幕と雷電取組の図 (江戸時代)
ここ一ヶ月余り、朝青龍問題で何かと騒がしい大相撲ですが、日本の国技である相撲が本場所以外で“しか”盛り上がっていないような気がする現状は寂しいというか悲しいですね。早く日本人の横綱も誕生して本場所の方を盛り上げて欲しい気がします。

さて前回の記事でも相撲について触れましたが、相撲といえば鷹狩りと共に信長のお気に入りの趣味のひとつ。少年の頃から鍛錬の意味もこめて仲間内で楽しんでいたという話もあります。

その相撲が『信長公記』で初めて触れられるのが、元亀元(1570)年3月3日。
この時も前回の記事同様、近江の国中から力士を召し寄せ安土の常楽寺で相撲大会を催します。

百済寺からは鹿や小鹿・たいとう・長光など、河原寺からは鯰江又一郎・青地与右衛門・はし小僧・大進など多くの力士が参加しました。この時活躍した鯰江・青地の二人は金銀飾りの太刀を与えられ信長の家臣に召抱えられ相撲奉行になっています。

天正6(1578)年2月29日にも近江の力士を集め安土山で大会を催します。
この日大活躍したのが日野の長光(上記の百済寺の長光と同一人物?)で、信長は身近に呼び寄せ(扇の)骨に金銀の彩色をした扇を与えます。
この日、長光も含めた23人が優秀な力士として選ばれたようです。

この年8月15日には近江や京都などから1500人もの力士が安土山に集まり大規模な相撲大会になります
このときの記述で「各部将が配下の力士たちを率いて参加」とあるので各部将も多くの力士を召抱えていたのかもしれません・・・というよりは配下の力自慢の者が相撲大会に参加したのでしょうか?

なんにしても大人数のため相撲奉行も青地与右衛門の他、津田信澄・堀秀政・万身重元・村井貞成・木村重章・後藤高治・布施公保・蒲生氏郷・永田正貞・阿閉貞大が加わります。この11名が相撲を取り仕切り“自らも”力士として参加したようです。
ちなみに行司は木瀬蔵春庵・木瀬太郎大夫(父子?)の二人のみ。二人だけで1500人の取り組みの行司を務めたため大会は夕刻まで続いたそうです。

この日も信長は活躍した14人をそれぞれ100石で召抱え太刀を与えます。
さらにこの年9月9日にも安土山で相撲大会を催し織田信忠・信雄が見物しています。

さらにこの年10月5日には畿内・近江の力士を召し寄せ、京の二条新邸にて大会を催し、これを摂家・清華家の公家に見物させています

天正7(1579)年8月6・7日、連日に渡り安土山で相撲大会が催され18才位の伴正林という力士が7人抜きの大活躍。両日活躍し信長に召抱えられます。
ちなみに伴正林は本能寺の変で信長と運命を共にすることになります。

次が前回触れた天正8年5月5日と17日にも開催。
17日の大会は甲賀地域からは30人の力士が参加しています。

この年6月24日にも開催しますが、この時は明け方から夜になり提灯をつけて続けたようです。この日も大野弥五郎が召抱えられています。
ちなみにこの直前の13日には円浄寺源七という力士が信長の勘気に触れ解雇されています。

天正9(1581)年4月21日には安土山で開催。
大塚新八・たいとう・うめが活躍します。
そしてこれが『信長公記』で触れられる信長最後の相撲大会になってしまいます。

このように信長はたびたび相撲大会開催
し、そのたびに多数の力士を召抱えました。本能寺の変がなければこの後も“大相撲安土場所”は続いたと思われますが、大相撲は形を変えつつ現代まで受け継がれることになります。
もちろん相撲は信長誕生のはるか前からありましたが・・・

ちなみに現在、その日の結びの一番のあとに行われる『弓取り』の儀式は信長が相撲大会で優勝した力士に褒美として弓を与えたのが始まりという説もありますがこれは誤りのようで、平安時代すでに存在していたようです。

余談ですが、両国国技館には相撲好きだった信長が相撲の取り組みを見物している姿が壁に大きく描かれているそうです(タイルを張り合わせた絵)。
情報提供: 『織田信長が好き!!』〜龍華成の安土城文庫〜の龍華成様

旧本能寺の焼けた瓦発見!!

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発掘された旧本能寺・丸瓦(京都市文化財保護課提供)
連日の本能寺ネタですが、今回は大ニュースといってもいいかもしれません!

先ほど(7時台の)NHKのニュースを見ていたら『本能寺の変』の話題が!
何かと思えば“旧本能寺跡の発掘調査で大量の焼けた瓦が発見”されたとのこと。
あっておかしくないのですが、旧本能寺関連の遺物が発見されたのは今回が初めて。大変な発見だったと思います。

今回の調査では瓦のほかにも幅6メートル深さ1メートルにも及ぶ堀や2メートルの石垣も一部検出されたということで、これは旧本能寺が小規模な城郭というか砦のような作りだったことを証明する大発見だと思います。
ちなみに大量の瓦は、発見された堀から出土したそうです。

本能寺の変では、信長自慢の名物茶道具も多数焼失しているので、報道はされていませんでしたが、この瓦類以外に“もしかしたら”名物茶器の破片も発見されているかもしれませんね。

さらに期待してしまう究極の発見が本能寺変で自刃して果てた信長公の遺骨

本能寺焼失後、明智軍の懸命の捜索にもかかわらず信長の遺体は発見されませんでした。
阿弥陀寺の清玉上人がひそかに遺体を運び埋葬したという伝承もありますが、真相は不明。本能寺の猛火で遺体が焼き尽くされ明智軍が確認できなかった可能性もあり、もしかしたら今回の発掘調査で何か発見されたり・・・というのは難しいでしょうか?

あるいは地下道が検出されたり??というのは妄想に近いですね・・

とりあえず、今回の調査で旧本能寺の瓦や遺構が発見されただけでも大成果ですね。
今後の調査(あるのかな?)にさらに期待です。

【詳細記事】
読売新聞 『焼けた?瓦出土、本能寺の変「史実を裏付ける貴重な発見」』

中国新聞 『「本能寺の変」焼け瓦か 初の遺構発見』

※写真は今回発掘された旧本能寺の丸瓦(京都市文化財保護課提供)

関八州・北条家所領安堵

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やや話が戻りますが、本願寺との和睦話が進んでいる同じ頃、関東の北条家との関係も大きな進展がありました。

天正8(1580)年3月、北条氏政・氏直父子は、今日の信長のもとへ使者を送ります。
氏政の使者は笠原康明。氏直の使者は間宮綱信。副使として原和泉守。

9日、滝川一益は京・本能寺で北条家からの使者を出迎え、笠原は鷹13羽及び馬5頭を献上します。

10日、笠原らは信長に挨拶に出向き、新たに太刀や酒・肴等を献上。織田方の伝奏役は滝川一益と補佐の牧庵が務めます。

この時、織田家と北条家が縁を結びますが、これは信長の娘と北条氏直の婚約をさすものと思われます。信長の娘が幼かったからすぐに結婚に至らなかったのか、理由は不明ですが、結局この話信長の死により消滅してしまいます。
(余談ですが、氏直は天正11年、家康の娘・督姫を正室として迎えることになります。)

信長はこの時、関東八州を北条家が治めることを認めます。これにより事実上、北条家は徳川家同様、織田家の支配下に属したと考えていいと思われます。


信長は「滝川一益に案内させるので、京をゆっくり見物してから安土においでください」と伝言を残し京を出立。

3月13日、信長は、矢部家定を使者とし、北条家の使者に「京での土産物代」として金銀100枚を贈ります。その後、鷹狩りなどを楽しみながら19日に安土に到着します。

石山本願寺との和睦 〜其の三 顕如、大坂退去〜

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天正8(1580)年閏3月9日、石山本願寺の顕如が和睦を受け入れたわずか4日後のこの日、こう着状態が続いていた北陸方面の柴田勝家が攻略を進めていた加賀(石川県南部)で本願寺一向一揆と織田軍の大規模な戦闘が行われます。

勝家は添川・手取川を越え宮ノ越(金沢市)に本陣を構えます。一向一揆は野々市砦に立て籠もり抵抗。勝家軍は、これを攻め多数討ち取ると兵糧を奪い取り、さらに各地を焼き払い進軍を続けます。快進撃は止まらずついに越中(富山県)国境を越えるまでに至り、安養寺越え(石川県・鶴来町)付近も焼き払います。

さらに木越(金沢市)の寺内町に攻め入り一向一揆を多数討ち取ります。

また、能登方面(石川県北部)では、織田方の長連龍が勝家軍と呼応し、各地を放火しながら進軍、飯山(羽咋市)で上杉方の温井景隆を打ち破ります。

この時、勝家のもとに顕如が和睦を受け入れたとの情報が届いていたかは不明ですが、和睦の話が進んでいることは当然知っていたと思われ、約4年にわたり加賀方面を攻めながら大きな戦果をあげられなかった勝家が功をあせり強攻策に出たのか、または信長から和睦が成立する前に加賀を平定するよう密命を受けたのかは不明です。

閏3月11日、信長はこの日付の書状で、各地で本願寺勢力と戦闘を続けている諸将に『矢留』といわれる停戦命令を発布。
この命令を受けた主な武将は、本願寺攻めの総大将佐久間信盛・信栄父子、石山本願寺の海上封鎖を受け持つ九鬼義隆・滝川一益、播磨・英賀と交戦している羽柴秀吉、そして、はっきりはしませんが柴田勝家も命じられたものと思われます。

4月9日、顕如は門跡(宗主)の地位を嫡男・教如に譲り、大坂を退去。紀州鷺森(和歌山市)へ移ります。妻の如春尼(北の方)や下間頼総ら主だったものは顕如に従います。

しかし、新門跡・教如は和睦反対派(雑賀衆や寺内町衆ら)が、当分は石山に在城した方がいいとの意見を受け入れ、この後も信長に抵抗を続けることになります。

石山本願寺との和睦 〜其のニ 本願寺内部対立〜

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天正8(1580)年3月17日、信長は、和睦条件を記したこの日付の誓詞・起請文を本願寺に送ります。

『本願寺文書』に記された条件を要約すると、
・すべての門徒を許す
・大坂は退去すること
・恭順の意を示せば加賀の二郡は本願寺に返還する
・退去の期限は7月の盆前
・花隈(花熊)、尼崎は大坂退去の時明け渡すこと
(※追記しました)
というような内容でした。
信長は、起請文の最後に(めったに押さない)血判まで押し、本願寺との長期にわたる戦いを終結させようとしていました。

本願寺内部では、この和睦条件の受け入れをめぐり、宗主・顕如とその妻で本願寺内で強い影響力を持っていたといわれる如春尼(にょしゅんに)を筆頭とする“和睦受け入れ派”と顕如の長男・教如を筆頭とする“徹底交戦派”が対立。反対派には寺内町衆や雑賀衆が加わっていました。

実は前年12月に正親町天皇より女房奉書(天皇の意を受けた女官の奉書)が本願寺に手渡されており、信長との和睦を命じられていました。これを機に翌1月、顕如は家老の下間頼廉らを使者として毛利氏に派遣。本願寺を毛利領内に移す計画をしますが断られていて、大坂を退去してどこに本願寺を移すかも問題になっていました。

さらに本願寺内部では信長の“騙まし討ち”を恐れていました。
信長は近衛前久にも書状を送り、本願寺の疑念を晴らす努力をし、さらにこの和睦は天皇の意向であることを強調します。

この3月、村重は長男・村次と花隈城の荒木元清らと共に毛利領に逃げ込んだといわれています。しかし、主を失った花隈城(神戸市中央区)はなおも抵抗を続けます。
※3月、尼崎城落城としていましたが、誤りでした申し訳ありません。また、村重や村次らはこの時点でまだ毛利領へ脱出はしていないという説もあります。


閏3月2日、包囲していた花隈城から荒木方の兵が出陣してきます。この戦いで池田元助・幸親(後の輝政)兄弟は15〜6歳でありながら大活躍したようです。

信長は再び本願寺に対し、この日付の朱印状をしたため、誓紙に書いたことに偽りがないことを伝えます。

閏3月5日、顕如は下間三家老を説得し、勅使に対し和睦受け入れを伝えます。
強硬派を無視した決断でした。

6日、信長は誓紙作成の検使として青山虎を天王寺に派遣。

7日、誓紙に署名した顕如・如春尼(北の方)・下間仲之(頼照の子)・下間頼廉・下間頼龍にそれぞれ黄金15〜30枚を与えます。


※閏3月6日に「諸国の織田軍に本願寺勢との停戦を命じます。」と書いていましたが、これは閏3月11日の話でした。お詫びして訂正させていただきます。

三木城陥落 〜其の二 別所長治、自刃〜

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天正8(1580)年1月15日?別所長治は叔父・別所賀相(吉親)に17日に切腹するよう命じます。それを受けた賀相は、切腹後、秀吉に首をさらされることを懸念し、城に火をかけて骨もわからないようにしてしまおうと、屋敷に火をかけます。
しかし、発見した家臣らが賀相を取り押さえ、その場で切腹させます。


17日、申の刻(午後4時前後)長治は予定通り妻子を呼びつけます。わずか三歳の子をに置き、涙しながら刺し殺します。続いて妻も引き寄せ刺し殺します。
弟・友之も兄同様に妻を刺し殺します。


別所兄弟は、手を取り合い広縁用意された一畳の畳の上に座し、家臣にこれまでの働きをねぎらい礼を述べ、「自分たちの切腹で家臣が助かるのはこの上ない喜び」と笑顔で語り、最初に長治が切腹して果てます。享年26歳(23歳とも)。
介錯した家老・三宅肥前入道治忠は、「最後を見届けておけよ」と腹を十文字に切り、腸(ハラワタ)を引きずり出して死にます。

弟・友之は、家臣に太刀や脇差などを形見として分け与えると、兄が切腹に使った脇差を使い切腹して果てます。享年25歳(22歳とも)

さらに叔父・賀相の妻は、3人の子(うち女子1人)を一人ずつ刺し殺し、自らも喉を切り自害して果てます。

自害した別所兄弟や妻たちは辞世の句をひとりの小姓に託しており、そこには悲痛な心情が詠まれていました。(『信長公記』にはその句が記されています。)

別所兄弟と叔父・賀相の首はこの後安土に届けられます。

秀吉は、三木城を攻略すると別所氏に従っていた長水城(宍粟郡山崎町)の宇野民部や英賀城(姫路市・夢前川の河口)の小寺識隆(のりたか)を攻め、これを攻略。
余談ですが、英賀城内の英賀御坊(本徳寺)の門徒や雑賀衆もこの合戦に参加していました。(長水城攻めはこの年4〜6月、詳細ついては後日記載予定)

こうして「三木の干し殺し」といわれた、約二年にわたる別所氏と織田軍の戦いは終結します。


有岡城に続く三木城の陥落は石山本願寺の顕如に大きな衝撃を与え、顕如は諸国の寺々に対し黒印状を発し、協力を要請しています。

顕如が恐れるように、この地域における、次の信長の標的は当然ながら石山本願寺でした。

嫡孫・織田三法師秀信、誕生

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織田秀信
天正8(1580)年、この年何月かは不明ですが、信忠に長男・三法師が誕生します。信長にとって初の男子の孫でした。
後に秀吉の「秀」の一字を与えられ秀信と名乗ることになります。

ちなみに信忠は正室になるはずだった武田信玄の娘・松との婚約が両家の関係悪化から破談し、その後正室を迎えた様子はなく、“この時点では”三法師が嫡孫だったと考えていいように思います。

母は、信忠の側室・塩川長満(国満か?)の娘という説が有力と思われますが、他に森可成の娘ともいわれ、また意外な説としては、武田信玄の娘で信忠の婚約者であった松ともいわれているようです。(ウィキペディア参照)

塩川(塩河)長満と国満はいろいろな文献で混同されることが多いようで、親子関係なのか親戚関係なのか不明ですが、同一人物という見方もあるようです。
ちなみに国満は荒木村重の娘婿になっています。村重と信長はほぼ同年(1才差)なので、年齢的に信忠の側室となった女性は村重の娘を母とする子ではないと思いますが・・・?

三法師は、2年後の天正10年、本能寺の変により信長・信忠が死去したため信雄と信孝が家督相続を争ったいわゆる清洲会議の際、秀吉に担がれわずか3歳で織田家を継ぐことになり、悲運の生涯を送ることになります。

織田・北条同盟 〜拡大する織田政権〜

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やや話し戻って、滝川一益の調略により有岡城を占拠した天正7(1579)年10月頃のこと。

天正7(1579)年10月、この頃信長と北条氏政は正式に同盟を結んだようです。
すでに9月の段階で氏政は弟の氏照を信長のもとに派遣。鷹を献上し誼を通じていました。

10月25日、氏政は再び6万もの軍勢を率い甲斐の武田攻めに出陣。三島(静岡県三島市)に布陣。武田勝頼もこの動きに対し富士山の麓、三枚橋に布陣。両者は黄瀬川を挟んで対峙します。徳川家康は時を同じくして出陣。駿河に攻撃を仕掛けます。

29日、越中(富山県)の神保長住が葦毛の馬を献上。長住は謙信の死後、信長の援助により越中・富山城を奪還しており、神保氏は越後・上杉、信濃・武田への備えを担っていたと思われます。皮肉にも武田勝頼は父・信玄の仇敵であった上杉氏以外周囲を織田方の大名に囲まれる状況に追い込まれていました。

30日、荒木村重攻めの本陣・小屋野にいる織田信忠のもとには降伏を許された宇喜多直家の代理・基家(弟・忠家の子)が挨拶に訪れます。

このように荒木村重や別所長治のように信長を裏切る大名が相次ぐ一方、西に東に信長に味方する大名も次々と現れ織田政権は拡大していきます。

さらに信長は朝廷との友好関係を深めることも怠りません。

11月5日、工事が完了した二条新邸を皇室に献上。
陰陽博士の選定により22日が吉日ということで東宮(誠仁親王)が移ることになります。

12月には荒廃していた石清水八幡宮の修築を信長直轄領の山城代官・武田佐吉・林高兵衛・長坂助一に命じます。このように京の町衆の心を掴むことも忘れない信長でした。

12月18日、信長は二条新邸の東宮のもとに参内し金銀・反物を献上。
19日、信長は雨の中、安土に帰国します。

有岡城陥落 〜其の三 人質の処刑〜

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天正7(1579)年12初旬(11月末下旬?)、有岡城内で事件が起きます。
城内の人質である荒木方の妻子らを警護するため残っていた池田和泉守が、子供の身を案じる句を残し、火縄銃で頭を撃ち抜き自害します。

荒木村重を説得するために尼崎城に向かった荒木久左衛門らでしたが、村重は尼崎・花隈両城の明け渡しを拒否。荒木久左衛門らは、説得を断念しそのまま有岡城に戻らず出奔してしまいます。(有岡城に戻り人質らと運命を共にしたともいわれています)

激怒した信長は、有岡城に残された荒木方の将兵の妻子らの処刑を命じます。

12月12日、荒木村重の妻子ら30人余りは、京都に護送され妙顕寺の牢に閉じ込められます。護送された人質らは涙ながらに親兄弟に最後の手紙を書き残したそうです。

人質警護のために残っていた荒木方の将である泊々部某、村重の弟・吹田某および荒木久左衛門の息子・自念の三人は、京都所司代・村井貞勝の役所の牢に投獄。

荒木方の上級武士の妻子らは滝川一益・蜂屋頼隆・丹羽長秀に預けられ磔を命じます。

13日、尼崎近くの七松で、122名の人質が磔にされます。子供のいる女性は子を抱きながら磔にされたそうです。妻子らは、火縄銃で撃たれたり、槍や薙刀で刺し殺されます。

中級武士の妻子388人及びその警護や世話などを任されていた若い男子ら124人の合わせて500余名は、矢部家定が監視のもと4軒の家に押し込められ、焼き殺されます。
熱さにもがき苦しみ泣き叫ぶ声が響き渡ったそうです。

14日、信長は山崎から京都妙覚寺に入り、村重の妻子・兄弟の処刑を不破光治・前田利家・佐々成政・原政茂・金森長近の越前衆5名に命じます。

16日、村重の一族は、車一台に二人ずつ乗せられ、京都市中を引き回されます。
この時引き回された30余名は、村重の弟や妻子、泊々部某(50代)・吹田某(21歳)・荒木久左衛門の息子・自念(14歳)、中には村重の娘で15歳の妊娠している少女も含まれ、ほとんどが10代〜20代の若者でした。
さらに幼子も含まれ、こちらは3台の車に乳母7・8名と共に乗せられていました。

村重の妻子らは、死を目前にしても取り乱すことなく、身なりを整え切られます。
侍女らは泣き叫びながら切られたようですが、14歳の自念と8歳の伊丹安大夫の息子も「最後の場所はここか」と言い残し、首を差し出し切られたそうです。
これを見ていた京の人々はさすがは一流の武士の子と褒め称えたそうです。

処刑された村重の一族らは、近隣の寺々の僧が引き取り弔いをします。

この残酷な処刑は、村重への見せしめもありますが、三木城の別所氏や石山本願寺の顕如へ対する警告でもあったものと思われます。

そして信長の狙い通り、13日の処刑以降、花隈城や尼崎城さらに石山本願寺に援軍として参陣していた毛利軍の乃美宗勝や荒木元清は毛利本国に引き上げてしまい、尼崎城にいた毛利軍の桂元将は石山本願寺に退去後、帰国を願い出るという始末。
本願寺の下間頼廉は桂元将に宛、帰国を思いとどまるよう書状を送ったそうです。
このように本願寺・毛利軍は完全に動揺していました。


信長の処刑行為は、残酷に写るかもしれませんが、これが戦国の世の定めであるとすれば、本当に憎むべきは妻子を見捨てた荒木村重や出奔した(とされる)荒木久左衛門らなのかもしれません。

歴史読本8月号 付録 「信長記」の大研究 

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ここ数日、暑い日が続いていましたが、今日は午後から雨でだいぶ涼しく快適な休みでした。あまりの快適さについつい昼寝が長引いてしまいました・・・貴重な休みが〜!

と言うことで??昨日(6月23日)発売された『歴史読本』ですが、今回は発売が非常に待ち遠しかったです。それはなぜか?

今号は「書き換えられた戦国合戦の謎」と題して、戦国合戦の新説や成果などが特集され、取り上げられている武将は伊達政宗・最上義光・北条氏康・佐竹義重・上杉謙信・武田信玄・朝倉義景・尼子経久・毛利元就・長宗我部元親・竜造寺隆信・島津義弘

あれ?!信長がいない!と思いましたが、やはり信長、特別枠です(笑
「戦国三大英雄の合戦研究最前線」として豊臣秀吉・徳川家康とともに登場しています。この中で新発見の「本能寺の変」三日前の光秀書状が取り上げられていますが、
これはすでに発売されている新書『だれが信長を殺したのか』で紹介した文書を再検討したものだそうです。

以上のように戦国ファンは興味がそそられる特集ですが、私がもっとも楽しみにしていたのは、今回の付録である『「信長記」の大研究』
この付録を担当されたのは『だれが信長を殺したのか』などでおなじみの桐野作人氏と織田信長家臣団研究会会員(そんな会があったのか!)で『新説 本能寺の変』を共に手がけられた和田裕弘氏

ご存知のように、このブログは太田牛一の著した『信長公記』を主な資料にしているのですが、正直なところ、その『信長公記』はいったいどのように成立したのか?著者の太田牛一とはどのような人物なのか?など、あまり詳しく調べたことがなかったので、今回の付録であらためて勉強したいと思います。

まだ、ちゃんと読んでいないんですが信長ファンは読んでみる価値があるのでは?

有岡城陥落 〜其の一 滝川一益の調略〜

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天正7(1579)年10月、滝川一益は配下の佐治新介を有岡城の中西新八郎の下へ送り込みます。どのようなやり取りがあったかは不明ですが、中西は織田軍への協力を約束します。

10月15日、中西は城内の足軽大将である星野左衛門尉・山脇勘左衛門・隠岐土佐守・宮脇又兵衛を仲間に引き込み織田方に寝返ります。

寝返った中西らは、滝川一益の軍勢を有岡城の惣構えの中にある上臈塚(じょうろうづか)砦へ引き入れます。この突然の織田軍の乱入に荒木軍は大混乱に陥り、多数が討ち取られ生き残った将兵は有岡城内に逃げ込みます。

さらに織田軍は、城下の屋敷などを焼き払い有岡城を裸城にしてしまいます。

荒木軍の将兵は、絶望的な状況になり、内部崩壊していきます。
ある砦を守っていた渡辺勘大夫は織田方に寝返ろうとしましたが、「不届きである」と切腹を申し付けられます。

野村丹後守が守る鵯塚(ひよどりづか)砦には200人の雑賀衆も加わり織田軍に抵抗をしていましたが、多くが討ち死に。野村は降伏して退去しようとしますが、これも切腹を命じられます。そしてその首は安土城に届けられます。

こうした状況に有岡城からは降伏するので助命して欲しいと言う申し出がありますが、織田軍はこの申し出を拒否し、この後、さらに一ヶ月に渡り攻撃を続けます。

11月中旬になり状況は大きく変わりますが、詳細はまた次回。

信長公、降臨!

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重要文化財・織田信長画像(長興寺蔵)
行きたい!見に行きたいです!!
っていきなり何の話か分かりませんね。失礼しました。諸国に放っている忍びより知らせが届きました。

名古屋市博物館の企画展で長興寺が所蔵している門外不出!?の信長公の肖像画が名古屋で初お披露目。


長興寺所蔵の信長公の肖像画とは、多くの方が見慣れている“あの”肖像画のことです(この記事に添付してる肖像画です)。よく見かけるのであちこちで公開されているのかと思っていましたが、中日新聞によると「戦後は地元豊田市の郷土資料館や一九九二年のスペイン・セビリア万博などで計六回公開されただけ」だとか。
良く見かけるのは写真パネルや複製だったんですね〜。

今回の企画でわずか一週間のみ展示が許されたそうです。肖像画自体は見慣れていますが、やはり現物を見てみたいですね。現物は信長像の上下に戒名や寄進した家臣の名前が書かれていたと思います。

ちなみに下記の日程で公開されるようです。

場所:名古屋市博物館『企画展 城からのぞむ 尾張の戦国時代』
会期:2007年6月16日(土)〜7月16日(月・祝)
※ただし、肖像画の実物は6月16日から24日までの一週間のみ。27日からは複製になるそうです。
※最終日以外の月曜日と6月26日は休館。


詳細は⇒ 名古屋市博物館HP

中日新聞記事は⇒ 『あの「信長像」を名古屋で初公開 市博物館で16日から』

企画自体も『城からのぞむ 尾張の戦国時代』ということで、約520点にも及ぶ模型や絵図などで紹介するそうなのでなかなか楽しそうですね。ますます行きたいです!
しかし・・・

なぜ夏休みにやらんのだ〜!


ということで、結局、実物を見ることは出来そうもありません・・・

宇喜多直家の寝返り

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天正7(1579)年9月、徳川と北条の同盟が締結されたほぼ同じ頃、羽柴秀吉が包囲している播磨・三木城攻めでも動きがありました。

9月4日、秀吉が急遽、安土の信長のもとを訪れます。用件は、毛利方に付いていた宇喜多直家が降伏を申し入れてきたので、それを受け入れることにしたので信長に朱印状をしたためて欲しいと言うものでした。

しかし、信長は事前に相談なく、勝手に直家の降伏を認めた秀吉に激怒し、追い返してしまいます。

秀吉は、この年、早い時期に宇喜多直家と接触していたようで、3月に直家は毛利方の三星城およびその周辺の砦を攻め、5月2日には三星城を落城させ、城主・後藤元政を討ち取っていました。

9月10日、秀吉が播磨に戻ってまもなく、兵糧攻めに苦しむ別所長治が籠城する三木城に兵糧を運び入れるため、毛利・本願寺連合軍が出陣してきます。
生石中務大輔(おいしなかつかさのたいふ)を総大将とした連合軍は、織田方の平田砦(岡山市)に攻め寄せ、三木城兵もこれに加わり、守将・谷衛好を討ち取ります

秀吉軍は毛利・本願寺・別所連合軍に攻めかかり、別所甚大夫・三大夫・左近尉及び三枝一族数名、さらに毛利や本願寺の将兵、数百人を討ち取ります。

11日、信長はこの播磨の合戦の戦勝報告を近江・逢坂(大津市)で受けます。
今時信長は秀吉に書状を送り「今後も精根をつめ、油断なく努力するよう」伝えます。もしかしたら、この際、直家の服属が許されたのかもしれません?

この日、すでに触れたように北条氏照が鷹を献上してきます。

12日、摂津・有岡城を包囲していた織田信忠は、荒木村重が移った尼崎へ出陣し、尼崎城の近く七松(尼崎市)の二ヶ所に砦を築き小屋野本陣に帰陣します。

徳川・北条同盟成立 〜武田包囲網と佐竹義重の苦悩〜

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佐竹義重
天正7(1579)年9月、荒木村重が摂津・有岡城を脱出した頃、東の武田攻めで大きな動きがありました。

9月5日、徳川家康と相模の北条氏政が同盟を結びます。
武田家と北条家は、上杉謙信死後の景勝と景虎の家督相続争い(御館の乱)を機に関係が悪化。武田勝頼は、上杉景勝と誼を通じており、この徳川・北条同盟により完全に断交に至ります。勝頼は、この同盟に対抗し、翌10月には、妹・菊を景勝に嫁がせ上杉家との関係を強めます。

9月11日、京に滞在していた信長のもとへ氏政の弟・氏照が訪れ、鷹三羽を献上。織田家とも友好関係も深め、織田・徳川・北条による武田包囲網は強固になります。

13日、勝頼と氏政は駿河(静岡県)・黄瀬川で氏政と対陣。この間に氏政は家康に出陣を要請。家康は、武田方の駿河・持船城を攻略。

25日、勝頼は、氏政との対陣を切り上げ、徳川攻めに向かいます。しかし、家康はこの動きに対し、勝頼との対決を避け遠江に撤退してしまいます。

この徳川・北条同盟でもう一人微妙な立場になった大名がいました。常陸(茨城県)の佐竹義重です。

佐竹義重は、北条氏とは長年対立関係にあり、上杉氏とは反北条同盟を結んでいた時期があり、武田家とは、同じ清和源氏の血筋で、一時信玄と反北条同盟を結んでいました。後に武田家とは、織田家との友好関係を重んじため疎遠になっていましたが、勝頼は、同じ清和源氏として反北条同盟を再び築こうと義重に接近していたようです。

足利義昭は、信長に奉じられて上洛する前に佐竹義重にも幕府再興を呼びかけていたようで、中央でもその名が知れ渡っていたようです。義重自身も中央の情勢を常に気にかけていたようで早い時期から信長と友好関係を築いていました。

織田家と徳川家は、強固な同盟関係であり、その徳川家が仇敵・北条氏と同盟。
結局、義重は中央の権力者である信長との友好を選択したようで、以後信長が本能寺の変で倒れるまで、北条家とは大きな合戦をしていないようです。
※佐竹氏や北条氏について知識がほとんどないので、この記事に誤りがある可能性があります。私の解釈が間違っていたらぜひお知らせください。


勝頼は、同じ清和源氏で信長と友好関係にある佐竹義重の仲介により織田家との和睦も模索したという説もあります。結局、実現には至りませんでしたが・・・

『本能寺の変の真相』と『ドラえもん最終話』

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ドラえもん“最終話”
今年もまた6月2日がやってきましたね。信長ファンなら忘れることはない『本能寺の変』が起こった日であり、信長公のご命日。

ちなみに天正10年6月2日は、ユリウス暦では1582年6月21日、現代の暦(グレゴリオ暦)で言うと1582年7月1日だそうです。

※ユリウス暦とグレゴリオ暦の誤差を理解していなかったため、記事の修正前、現代の暦で言うと6月21日と記していました。
ご指摘してくださったk2様、小嶋日向守信房様ありがとうございます。



このブログで連載中の『織田信長史』は、まだまだ本能寺の変にたどり着きそうにありません。
遅筆で申し訳ありません。(ウ〜ン、まさかこんな長期連載になるとは予想していませんでした・・・)

そして、アンケート掲示板 『本能寺の変の黒幕は誰』378名(2007/6/2現在)ものご回答頂きありがとうございます!引き続き多くの方のご参加お待ちしています。

例によって?本能寺の変の詳細については、連載終了後に特集したいと思っていますが、今回は最近問題になっている『ドラえもん最終話』と『本能寺の変の真相』について、個人的に共通点があるような気がするので、その辺についてチョト触れたいと思います。

『ドラえもん最終話』、実は私も昨年暮れくらいだったでしょうか?ネットで掲載されているのを読んだことがあります。
実に良く出来た作品で、原作者の藤子・F・不二雄先生が実際に書いたのではないかと思わせるような感動的な作品でした。

内容は、
電池切れで動かなくなったドラえもん。電池を交換するとすべても記憶がなくなってしまう。ドラえもんが自分たちのことを忘れてしまうのは悲しすぎるということで、のび太が猛勉強して記憶をなくさずにドラえもんが再び動けるようにする。
実は、猛勉強して数十年後、科学者になるのび太がドラえもんの設計者だった。ドラえもんは、再び動き出し、数十年後ののび太と“再会”。
確かこんな感じだったと思います?

ご存知のように原作者の藤子・F・不二雄先生は10年ほど前にすでに亡くなっており、ドラえもんの最終回は存在しません。この話は、ドラえもんの大ファンと思われる“田嶋・T・安恵”という方が描いた想像の最終回。(同人誌として発行されかなり売れたようです。)
この話以外にも多くのファンがそれぞれいろいろな最終回を思い描いていることと思います。

ここまで書いたら“ピン!”とこられた方もいるかも知れませんが、『本能寺の変の真相』についても同様で、現存する史料で読み解く限り、正直なところ本能寺の変は

 「明智光秀が、本能寺に宿泊する織田信長を襲撃して死に追いやった」

それしか確認できません。なぜ謀反に踏み切ったのかその真相は不明で、現在伝わる怨恨説や野望説そして多くの黒幕説などそのほとんどが江戸時代以降の人の“推測”であり“想像”でしかありません。これから先も新たな史料の発見がない限り真相は不明であり、想像だけが語り継がれることになります。

今回の『ドラえもん最終話』も数百年後には“真の最終回”として伝わっているかもしれません。そして、現在も含めこれからもいろいろな人が最終回を創作し、いろいろな“説”が飛び交うのかもしれませんね?まあ、現代は多くの情報が残されているので真相が不明になるようなことはないでしょうが・・・

藤子・F・不二雄先生が『ドラえもんの最終話』を描いていたらどのような内容になっていたんでしょうね?
そして、『本能寺の変の真相』が、解明される日は来るのでしょか?

誰かタイムマシーンを発明してください!!

荒木村重、尼崎城へ脱出

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天正7(1579)年8月20日、徳川家が信康問題で揺れている頃、信長の命を受け織田信忠は摂津・有岡城攻めのため岐阜から出陣します。

22日、信忠軍に堀秀政が合流し、小屋野(昆陽・兵庫県伊丹市)に着陣し、有岡城包囲軍に加わります。

村重が有岡城に籠城して約10ヶ月。毛利家は九鬼水軍に木津川河口で惨敗し、一時の勢いを失い、丹波は明智光秀により平定され、石山本願寺も織田軍の厳重な包囲のため籠城を余儀なくされている状況。
有岡城の村重もかなり追い詰められた状況になっていました。

9月2日夜、村重は、状況打開のため有岡城を脱出。嫡男・村次が守る尼崎城へ向かいます。共をする者わずか5〜6人。この脱出の際、村重は、お気に入りの茶道具『葉茶釜』と愛妾も連れて行ったそうです。

一般に村重のこの行動は、有岡城の一族・家臣を見捨てたように言われていますが、この頃、尼崎城には、毛利家臣・桂元将が援軍として入城しており、毛利家との連絡を取りやすい尼崎城に拠点を移した方が有利と判断したための脱出であったとも考えられているようです。

主を失った有岡城は、その後約二ヶ月に渡り奮戦します。しかし、残された村重の一族・家臣を待っていたのは悲劇的な最後でした。

詳細は、また後日。

岡崎信康自刃事件 〜其の二 信康の死〜

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天正7(1579)年7月上旬、信長は、徳川家康の長男・松平(岡崎)信康が武田家に内通しているとのうわさの真偽を確かめるべく、家康に説明を求めます。
家康は、重臣・酒井忠次を信長のもとへ派遣します。

7月16日、酒井忠次は、長篠城主・奥平信昌を伴い、安土の信長のもとを訪れ、馬を献上します。

信長は、早速、娘で信康の正室となっている五徳(徳姫)から送られた12ヶ条の密書について忠次に問いただします。
忠次は12ヶ条のうち10ヶ条を否定できず、返答に窮します。

これにより信康の武田家内通の噂は真実と判断した信長は、家康に信康を厳罰に処すよう命じます。この時具体的に殺すよう命じたとも言われています。

この事件は、信長が嫡子・信忠より、信康が優秀であったため、後々脅威になるのを恐れ信康殺害を企てたという説もありますが、この時期、西に毛利・本願寺・東に上杉や武田が依然健在、さらに荒木村重や別所長治の件も解決していない状況。このような謀略で徳川を敵に回す可能性のある危険な賭けに出るとは考えにくいように思います。

信康は勇猛でありながら日頃の行状が悪かったという話もあり、徳川家内部でも信康が家康の跡を継ぐことに危惧を抱く勢力もあったようです。

『信長公記』の原本である『安土日記』と家康の家臣松平家忠の『家忠日記』に似たような記事があり、信康が幽閉される直前、信康が謀反を企てているとの噂が流れ、8月3日、家康は、武装した兵を率い浜松から岡崎城へ向かい信康と対面。

4日、父子はなんらかを話し合い、信康は大浜に退去。
5日、松平家忠は岡崎に到着すると家康から大浜に近い西尾に兵を配備。その後三日間に渡り信康を監視します。

9日、信康は遠江に移されます。
10日、家康は、一族や家臣に信康と連絡することを一切禁じ、起請文を書かせ“信康派”の勢力拡大を事前に封じます。

家康の浜松派と信康の岡崎派の内部権力闘争が、信康事件の根幹にあったとの見方が近年有力視されているようです。 

8月29日、家康は家臣に命じ、浜松の近く冨塚で正室・築山殿を殺害。

9月15日、遠江・二股城(静岡県天竜市)に幽閉していた、長男信康に切腹を命じます。信康は最後まで疑惑を否定しながら自刃して果てます。享年21歳。これにより徳川家分裂の危機は回避されることになります。

この信康の切腹に際し、介錯役を服部半蔵が担うことになりましたが、手が震え刀を取れなかったとも伝わります。

そして家康自身、後に信康を死に追いやったことを後悔したとも言われています。

※文中、松平“家忠”がすべて“忠家”になっていました。申し訳ありません。訂正しました(2008.1.4)

出陣!いざ尾張へ!!

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昨年3月の岐阜・滋賀・京都以来、久々の遠征に29日(夜)から行ってきます。

例によって?ビンボー強行日程旅行です(笑)
今回は、残念ながら青春18切符のシーズンではないので、格安夜行バス&格安ビジネスホテルで挑みます!(現地一泊&車中二泊・・・・ハードだ〜!)


今回の目的地は数年前にも行った信長公の本拠・尾張。

前回は目の前にしながら入城時間に間に合わず、結局外堀をぐるり一周しただけの名古屋城に再び挑んできます!

そして、楽しみなのが国宝犬山城。現存する天守閣のなかで最も古いといわれているので、かなり期待しています。

そして、桶狭間古戦場も石碑のみのようですが、行ってきたいと思います。桶狭間の合戦当時を妄想?!してきます(笑)

あとは時間があれば、清洲城や熱田へも行ってきたいと思います。ちょっと欲張りすぎですね〜
こちらは前回、行ったのでホント時間があればといった感じです。
熱田の蓬莱軒の“ひつまぶし”ももう一度食べてみたいですがケッコー待たされる気がするので今回は断念します。

またまた写真を撮りまくってきたい思います。特に珍しい写真は撮れないと思いますが、後日記事にする予定です。あまり期待せずにお待ちください。

安土城天主閣の完成

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安土城天主(セビリア万国博覧会展示品)
天正7(1579)年5月1日、信長は、有岡城攻めの本陣である古池田から京に帰還します。

3日、京での処務を終えると小姓衆だけを伴って安土に帰国します。

11日、信長は誕生日であるこの日(12日説も)、吉日という事で、安土山麓の居館から完成した天守閣に移り住みます。天正4年1月に築城を開始してから三年以上の月日が流れていました。

この年、天正9(1581)年7月の話になりますが、盂蘭盆会(うらぼんえ:7月15日)の夜、天主閣と安土城の敷地内に有る總見寺にたくさんの提灯を飾り火を灯し、さらに安土周辺の琵琶湖に提灯を乗せた船を何艘も配置していっせいに点灯させるという、言ってみれば現代のイルミネーション的演出を信長は考案し、その美しい光景を見た家臣・領民らは大いに喜んだそうです。

※写真は「安土城天主 信長の館」内に展示されているスペイン・セビリア万国博覧会に出展された、安土城天主5・6階部分を私が撮影・加工したものです。実物は、屋内に展示してあります。

興味のある方は下記リンク先に、昨年旅行したときの安土城の写真を多数紹介していますのでぜひご覧ください!
■諸国漫遊記 〜安土編 其の一〜
■諸国漫遊記 〜安土編 其の二〜
■諸国漫遊記 〜安土編 其の三〜
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