天正10(1582)年3月17日、武田信豊の首実検を終えた信長は信濃・飯田から飯島(長野県飯島町)に陣を移します。武田軍との戦いは嫡男・信忠の指揮のもとほぼ終結しており、信長は旧武田領を視察するのみといった状況でした。

同じ日、西の備前(岡山県)では、信長の四男(五男とも)で羽柴秀吉の養子になっていた羽柴秀勝が初陣を迎えます。この時15歳位だったと思われる秀勝は、秀吉補佐のもと、備前で唯一織田方に敵対していた児島城(岡山県倉敷市)を攻めます。

おそらく問題なくこの城攻めは勝利し、備前は織田の勢力下になったと思われ、秀吉軍はこの後、備中へ軍を進めることになります。

18日、信濃の信長は高遠に陣を移し、さらに翌日上諏訪の法花寺に着陣。信長はここに4月2日まで滞在することになりますが、武田の残党などの挙兵を警戒して指揮下の津田信澄・菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・竹中重隆・蒲生氏郷・細川忠興・池田元助・高山重友・中川清秀・明智光秀・丹羽長秀・筒井順慶や馬廻り衆らに陣構えを指示し万全の守りを固めます。

『明智軍記』(だったと思われますが)によれば、この法花寺で本能寺の変の怨恨説の理由のひとつとされる事件が起きます。※状況や台詞は、正確ではありません。

武田討伐を終えた宴席で、光秀が「我々もずいぶん骨を折りましたな」と言う言葉を信長が聞き、「光秀!お前が何をしたのだ!」と激怒。信長が(または森乱丸とも)鉄扇で光秀の額を叩きます。
これを恨み、本能寺の変を起こしたというもの。
『明智軍記』は光秀の死後、約百年経ってから書かれたといわれる書のため、その信憑性は、かなり低いとされています。