戦国情報ウェブマガジン 戦国ウォーカー

戦国時代

× Sengoku Walker



荒木村重

絵師・岩佐又兵衛 〜生き残った荒木村重の子〜

mixiチェック
毎週日曜日の朝、見ているNHK教育テレビの『新日曜美術館』。今回、取り上げられたのが「岩佐又兵衛」。「?」いまいちピンときませんでしたが、荒木村重の子と紹介され「あっ!そういえば」と思いだしました。『織田信長 101の謎』(川口素生著)で松永久秀の子孫の俳人・松永貞徳とともに紹介されていた人物。

又兵衛は、天正6(1578)年に村重の子として摂津・有岡城で生まれています。何月の誕生かは不明ですが、この年10月、父・村重は信長に反旗を翻し、又兵衛波乱の人生が始まります。
翌天正7年、村重が逃亡後の12月、有岡城に残された村重一族の多くが処刑される中、乳飲み子だった又兵衛は乳母の機転で落城寸前に城を脱出し石山本願寺で匿われ母方の姓「岩佐」を名乗り生活。(過去の記事参照 ⇒ 有岡城陥落 〜其の三 人質の処刑〜 )
天正8(1580)年には保護してくれていた本願寺も信長に降伏。しばらくは京で暮らし絵師として活躍していたようです。40歳くらいの時、越前福井藩に召し抱えられたようです。60歳くらいのときには三代将軍徳川家光に請われて江戸に出仕。多くの名作を残し慶安3(1650)年江戸で没しています。ちなみに又兵衛は“浮世絵の元祖”ともいわれているようです。

今回、番組で取り上げられていた作品は『山中常盤物語絵巻』を中心に、『上瑠璃物語絵巻』や『旧金谷屏風』『三十六歌仙図』『洛中洛外図屏風』など。

『山中常盤物語絵巻』では、源の義経の母・常盤御前が盗賊に殺害される場面や義経が母の敵を討つ場面が恐ろしげなタッチで描かれている一方、『洛中洛外図屏風』(信長が謙信に贈った屏風とは別)では京の人々の生活が楽しく描かれているのが印象的でした。

今朝の放送を見逃した方は、今晩20:00から同局で再放送があるので興味がある方はご覧になってみてはいかがでしょうか・・・ん? 20:00といえば大河『天地人』の裏番組になりますね〜お気をつけあれ(笑


岩佐又兵衛―浮世絵をつくった男の謎 (文春新書) 『岩佐又兵衛―浮世絵をつくった男の謎 』辻惟雄著 (文春新書)


余談ですが松永久秀の子孫「松永貞徳」に関しては過去の記事でも少し取り上げています、良かったら読んでみてください。
⇒ 2007年11月4日:「斎藤道三の子孫 俳諧師・斎藤徳元」

有岡城陥落 〜其の三 人質の処刑〜

mixiチェック
天正7(1579)年12初旬(11月末下旬?)、有岡城内で事件が起きます。
城内の人質である荒木方の妻子らを警護するため残っていた池田和泉守が、子供の身を案じる句を残し、火縄銃で頭を撃ち抜き自害します。

荒木村重を説得するために尼崎城に向かった荒木久左衛門らでしたが、村重は尼崎・花隈両城の明け渡しを拒否。荒木久左衛門らは、説得を断念しそのまま有岡城に戻らず出奔してしまいます。(有岡城に戻り人質らと運命を共にしたともいわれています)

激怒した信長は、有岡城に残された荒木方の将兵の妻子らの処刑を命じます。

12月12日、荒木村重の妻子ら30人余りは、京都に護送され妙顕寺の牢に閉じ込められます。護送された人質らは涙ながらに親兄弟に最後の手紙を書き残したそうです。

人質警護のために残っていた荒木方の将である泊々部某、村重の弟・吹田某および荒木久左衛門の息子・自念の三人は、京都所司代・村井貞勝の役所の牢に投獄。

荒木方の上級武士の妻子らは滝川一益・蜂屋頼隆・丹羽長秀に預けられ磔を命じます。

13日、尼崎近くの七松で、122名の人質が磔にされます。子供のいる女性は子を抱きながら磔にされたそうです。妻子らは、火縄銃で撃たれたり、槍や薙刀で刺し殺されます。

中級武士の妻子388人及びその警護や世話などを任されていた若い男子ら124人の合わせて500余名は、矢部家定が監視のもと4軒の家に押し込められ、焼き殺されます。
熱さにもがき苦しみ泣き叫ぶ声が響き渡ったそうです。

14日、信長は山崎から京都妙覚寺に入り、村重の妻子・兄弟の処刑を不破光治・前田利家・佐々成政・原政茂・金森長近の越前衆5名に命じます。

16日、村重の一族は、車一台に二人ずつ乗せられ、京都市中を引き回されます。
この時引き回された30余名は、村重の弟や妻子、泊々部某(50代)・吹田某(21歳)・荒木久左衛門の息子・自念(14歳)、中には村重の娘で15歳の妊娠している少女も含まれ、ほとんどが10代〜20代の若者でした。
さらに幼子も含まれ、こちらは3台の車に乳母7・8名と共に乗せられていました。

村重の妻子らは、死を目前にしても取り乱すことなく、身なりを整え切られます。
侍女らは泣き叫びながら切られたようですが、14歳の自念と8歳の伊丹安大夫の息子も「最後の場所はここか」と言い残し、首を差し出し切られたそうです。
これを見ていた京の人々はさすがは一流の武士の子と褒め称えたそうです。

処刑された村重の一族らは、近隣の寺々の僧が引き取り弔いをします。

この残酷な処刑は、村重への見せしめもありますが、三木城の別所氏や石山本願寺の顕如へ対する警告でもあったものと思われます。

そして信長の狙い通り、13日の処刑以降、花隈城や尼崎城さらに石山本願寺に援軍として参陣していた毛利軍の乃美宗勝や荒木元清は毛利本国に引き上げてしまい、尼崎城にいた毛利軍の桂元将は石山本願寺に退去後、帰国を願い出るという始末。
本願寺の下間頼廉は桂元将に宛、帰国を思いとどまるよう書状を送ったそうです。
このように本願寺・毛利軍は完全に動揺していました。


信長の処刑行為は、残酷に写るかもしれませんが、これが戦国の世の定めであるとすれば、本当に憎むべきは妻子を見捨てた荒木村重や出奔した(とされる)荒木久左衛門らなのかもしれません。

有岡城陥落 〜其の二 有岡城占拠〜

mixiチェック
天正7(1579)年10月、明智光秀は、長岡藤孝(後の細川幽斎)と共に丹後の一色満信を攻め一色氏を降伏させ丹後を平定します。一説には藤孝の娘と満信の婚姻を条件に講和したともいわれています。光秀が丹波攻めを開始してから4年余り。ようやく丹波・丹後の平定がなります。

10月24日、光秀は、安土の信長へ丹波・丹後の平定を報告。
後日、丹波は光秀、丹後は藤孝へ与えられます。

これによりさらに織田軍には戦力的ゆとりが生まれ、摂津・有岡城は更なる窮地に追い込まれます。

11月19日、織田方は、有岡城に残る村重の重臣らに対し、ある条件を提示します。
その条件とは、「尼崎・花熊(花隈)の両城を明け渡せば、有岡城の村重の妻子らを助命する」という内容でした。
この条件を受け入れた村重の家老・荒木(もと池田)久左衛門ほか主な家臣らは妻子を人質として有岡城に残し、尼崎城へ向かいます。

このとき村重の妻らは、村重へ死を覚悟した内容の歌を送ります。これに対し村重は諦めとも取れる内容の歌を返しています。
※『信長公記』には、その歌が詳しく記されています。

重臣が退去した有岡城には津田(織田)信澄が入城し、警備のため兵を配置し、事実上有岡城は織田軍の支配下に置かれます。

荒木村重を説得するため尼崎城に向かった荒木久左衛門らは、村重を説得しきれず翌12月、有岡城に残された人質は悲劇的な結末を迎えることになります。
詳細はまた次回。

荒木村重、尼崎城へ脱出

mixiチェック
天正7(1579)年8月20日、徳川家が信康問題で揺れている頃、信長の命を受け織田信忠は摂津・有岡城攻めのため岐阜から出陣します。

22日、信忠軍に堀秀政が合流し、小屋野(昆陽・兵庫県伊丹市)に着陣し、有岡城包囲軍に加わります。

村重が有岡城に籠城して約10ヶ月。毛利家は九鬼水軍に木津川河口で惨敗し、一時の勢いを失い、丹波は明智光秀により平定され、石山本願寺も織田軍の厳重な包囲のため籠城を余儀なくされている状況。
有岡城の村重もかなり追い詰められた状況になっていました。

9月2日夜、村重は、状況打開のため有岡城を脱出。嫡男・村次が守る尼崎城へ向かいます。共をする者わずか5〜6人。この脱出の際、村重は、お気に入りの茶道具『葉茶釜』と愛妾も連れて行ったそうです。

一般に村重のこの行動は、有岡城の一族・家臣を見捨てたように言われていますが、この頃、尼崎城には、毛利家臣・桂元将が援軍として入城しており、毛利家との連絡を取りやすい尼崎城に拠点を移した方が有利と判断したための脱出であったとも考えられているようです。

主を失った有岡城は、その後約二ヶ月に渡り奮戦します。しかし、残された村重の一族・家臣を待っていたのは悲劇的な最後でした。

詳細は、また後日。

有岡城総攻撃 〜万見仙千代の死〜

mixiチェック
1578(天正6)年12月、大和田城の安部二右衛門や芝山監物の寝返りにより、苦境に立たされた荒木村重ですが、それでも尼崎城の長男・村次や一族が付き従っていました。

信長は、荒木一族が敵対している状況ながら毛利水軍の撃破に加え、高山右近(重友)・中川清秀の降伏など情況が好転したため本願寺との間に進めていた和睦を撤回します。安芸の毛利氏に送る予定だった勅使の派遣を中止します。

12月4日、滝川一益・丹羽長秀に命じ、有岡城攻撃の手始めとして、一の谷(兵庫)を焼き払い有岡城をけん制し、塚口(尼崎市)も陣取らせます。

8日、ついに信長は村重の籠もる有岡城総攻撃を全軍に命じます。
先陣として堀秀政・万見仙千代重元・菅谷長頼が鉄砲隊を率い攻撃を開始。さらに弓衆を三隊に分け城下町に火矢を打ちかけ町を焼き払います。

しかし、有岡城は頑強な城で、織田軍は苦戦を強いられます。
大軍を擁しながら攻めあぐねる状況に焦りからか、信長は力攻めを強行。
夕方から夜にかけ攻めつづけ馬廻り衆に城内への突撃を命じます。この無謀な力攻めにより側近筆頭格の万見仙千代が討ち死。

信長は、最愛の万見仙千代の死で逆に平静さを取り戻したのか、力攻めから一転、包囲戦に切り替えます。

11日、信長は本陣を古池田に移し、諸将に各地に砦を築くよう命じます。
塚口には、丹羽長秀・蒲生氏郷・織田信孝・高山右近(重友)他。
毛馬村には、織田信包・滝川一益・織田信雄他。
倉橋には、池田恒興・元助・幸親父子。
原田には、中川清秀・古田重然(織部)。
刀根山には、稲葉一鉄・氏家直通・伊賀平左衛門他。
郡山には、津田信澄。
古池田には、塩川伯耆。
賀茂には、織田信忠。
高槻には、大津長治・生駒一吉・生駒一正・猪子次左衛門・村井貞成・武田左吉他。
茨木には、福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成。
中島には、中川清秀(原田とは別の隊か?)
一つ屋には、高山右近(塚口とは別の隊か?)
大和田には、安部二右衛門。

蟻の這い出る隙間も無い布陣で、村重の籠もる有岡城を完全包囲。
尼崎や花隈の荒木方の城には毛利軍や本願寺の門徒もわずかながら参陣していましたが、とても織田軍に対抗できるほどの兵力は無く、籠城を余儀なくされます。

信長は、さらに羽柴秀吉に佐久間信盛・明智光秀・筒井順慶を加え、播磨へ出陣させ、道場河原・三本松に砦を築かせ、別所長治の三木城を包囲している各砦に物資の補給を命じます。

荒木村重、謀反!

mixiチェック
1578(天正6)年10月21日、堺での鉄甲船団の視察を終え、安土に帰国していた信長の下へ予期せぬ知らせが届きます。

「荒木村重が謀反を企てている」

この報を受けた信長は驚きと共に、この情報が本当なのかどうか疑います。
ただちに松井夕閑・明智光秀・万見仙千代を荒木村重の下へ派遣し、真偽を確かめさせます。

村重は使者に対し、「事実無根、謀反の意思はない」と説明しますが、「真であれば母親を人質として預け、出仕せよ」との命令には従いませんでした。

結局、村重は叛旗を翻し、居城である有岡城に籠城してしまいます。尼ヶ崎城主で嫡男の村安(光秀の娘婿)、さらに茨木城主で従兄弟の中川清秀、高槻城主の高山右近もこれに同調し、信長に叛旗を翻します。

謀反の理由は定かでありませんが、「半年以上前から毛利方と通じていた」とか、「従兄弟で与力の中川清秀の家臣が、包囲している本願寺へ米を密かに売っている」という噂が流れ、弁明のため出仕するつもりだったが、家臣に「疑われたからには弁明しても無駄。出仕すれば殺されてしまうから謀反するしかない」と説得されたなど言われていますが、いずれも推測の域を出ないようです。

村重の謀反は、対本願寺・毛利戦略を大きく揺るがすものになりました。この年2月には別所長治が謀反し、丹波では赤井氏や波多野氏が抵抗をつづけている状況。これに摂津の村重が謀反したとなっては、播磨の秀吉は、完全に孤立し、西国は完全に毛利氏勢力下になってしまい、天下統一が完全に頓挫する危機をはらんでいました。

信長は、この危機を脱するべく、村重のもとへ使者を送り説得を続けます。しかし、村重が翻意することはありませんでした。

11月3日、説得をあきらめた信長は、有岡城の村重を討つべく安土城を出発。京・二条新邸へ入ります。さらにここで、再度、明智光秀・松井夕閑・羽柴秀吉らを使者として送り、最後の説得を試みますが、説得は不調に終わってしまいます。

この頃、摂津の各城・砦には、本願寺攻めの監察役として、信長の小姓衆や馬廻衆が派遣されていましたが、村重の謀反により“人質状態”になってしまいました。しかし、村重は速やかに解放し、この時、長男・荒木村安の妻となっていた光秀の娘も離縁され送り返されました。

信長と荒木村重

mixiチェック
今回、荒木村重の謀反について取り上げる予定でしたが、その前に信長と荒木村重の関係について触れておきたいと思います。

まず出会いについてですが、謀反を起こす10年前、信長が足利義昭を奉じて上洛した1568(永禄11)年9月のことになります。

当時、荒木村重は、摂津の池田勝正の配下に属し信長と一戦を交えますが、池田勝正はすぐに降伏し、摂津・池田城を任されることになります。このとき村重自身が、信長と顔を合わせることがあったかははっきりしません。

この2年後には池田家に内紛が生じ、池田家の実権を握り、さらに浅井・朝倉・本願寺相手に信長が苦戦し、摂津が手薄になると、この機に乗じて同じく摂津・高槻城を任されていた和田惟政を討ち滅ぼし摂津の大半を領します。

1573(元亀4・天正元)年に将軍・足利義昭と信長が対立すると、村重は細川藤孝と共にいち早く信長へ挨拶に訪れ臣従を誓います

織田配下となった村重は、信長の許しの下、摂津統一を進め、翌年、伊丹城の伊丹忠親を滅ぼし、摂津を平定し本拠を伊丹城に移し、城名を有岡城と名を改めます。

以後、摂津周辺の合戦に従軍し信長に忠勤を励みますが、1578(天正6)年10月、突如謀反を起こすことになります。


ここでひとつ信長と村重の有名なエピソードを紹介しておきます。
とある宴席でのこと、信長は突如、刀で側らにあった餅(饅頭とも)を突き刺します。すると村重の前に歩み寄り、その餅を村重の眼前に突き出します。一同騒然とする中、村重は動ずることなく、刀に突き刺さった餅にかじりつき、餅を食べつくします。
さらに餅で汚れた信長の刀を自分の袖でふき取ると言う徹底振り。
この振る舞いに信長は、大いに感心し、以後村重を厚遇することになります。
村重の豪胆さと信長の奇抜な人物鑑定方法を物語るお話でした。

参考資料⇒樋口晴彦著 『信長の家臣団―「天下布武」を支えた武将34人の記録』『信長の家臣団―「天下布武」を支えた武将34人の記録』あまなつAdhover 信長の家臣団―「天下布武」を支えた武将34人の記録

イメージイラスト⇒秋月まんじゅ様 『秋月草紙』 (餅を喰らう荒木村重です)
sengoku 検索
お知らせ
■戦国情報ブログ「Sengoku Walker」と統合しました。あらためてよろしくお願いします。


■このブログは専門知識のない管理人が本やネット・テレビ等から得た情報を元に書いています。


■このブログに書かれている内容は一つの説にすぎません。またこのブログで紹介している人物の年齢は基本的に数え年で表記し、推定年齢の人物もいます。ご了承ください。


■記事の誤りなど気付かれた方はぜひコメントにてお知らせください。よろしくお願いします。


■当ブログはリンクフリーです。
月別アーカイブ
戦国MONO


戦国グッズ専門店
【戦 国 M O N O】
入口






戦国書房 Pick Up

≫ 戦国書房入口
戦国ウォーカー twitter版
戦国ニュース
【戦国ニュース】
>>戦国ニュースをもっと読む  ※twilogにつながります
応援よろしくお願いします!




Mac ソフトのことなら act2.com


  • ライブドアブログ