これから数回にわたり、信長死後の織田家諸将や同盟国の動向について触れたいと思います。
一回目は日野城主の蒲生賢秀とその嫡男で信長の娘・冬姫の婿である氏郷(当時賦秀:ますひで)について書きたいと思います。

天正10(1582)年6月2日、本能寺の変勃発時、蒲生賢秀は津田(織田)源十郎信益(本丸留守居役)や木村次郎左衛門らと共に安土留守居役を務めており、賢秀自身は木村と共に二ノ丸に入っていました。

変の凶報は2日の巳の刻(午前10時頃)に早くも噂話として安土にもたらされていたようですが、事実かどうかはっきりしないため多くの領民はじっと事態を見守っていましたが、京から次々と下働きの者たちが逃げ帰ってきたため安土城下は大騒ぎになります。尾張や美濃出身の者はそれぞれ出身地を目指し、夜には山崎秀家も安土の邸宅を焼き払い領国に逃亡。

本丸留守居の津田信益らの動静は不明ですが、安土城二ノ丸にいた蒲生賢秀は信長の妻子を保護するため日野城にいた息子・氏郷に護衛の兵を送るよう指示。

3日、当初、安土城から落ち延びることを一部の婦人らが拒んだようで、賢秀に対し「安土城を退去するのであれば城内の金銀財宝を運び出し城に火をかける」よう訴えます。しかし、賢秀は「上様(信長)が心血注ぎ作り上げた天下に二つとない城を焼くのは恐れ多く、金銀などを持ち出すことは天下の嘲りを受ける」としこれを拒否。
結局、安土城は無傷のまま一旦は明智軍の手に渡ることになります。

安土城を退去した蒲生賢秀は、居城・日野城に信長の妻子を匿い息子・氏郷と共に明智軍を迎え撃つ準備を進めます。
この動きに対し明智光秀は蒲生父子に降伏を勧めます。しかし、蒲生父子は信長の恩を理由に拒否。
明智軍は日野城攻撃を決めたようですが、日野に攻め入る前に光秀は山崎の合戦で敗北。蒲生家は危機を乗り越えます。

信長と同年生まれの賢秀は、二年後の天正12(1584)年4月、51歳で死去。
信長の娘婿である氏郷は秀吉に仕え、小牧・長久手の戦い九州征伐・小田原征伐などに従軍。数々の戦功を挙げ、羽柴姓を賜り最終的に会津92万石という領国を与えられます。しかし、文禄4(1595)年2月、京・伏見屋敷で病死。享年40才という若さでした。