やや話し戻って、滝川一益の調略により有岡城を占拠した天正7(1579)年10月頃のこと。

天正7(1579)年10月、この頃信長と北条氏政は正式に同盟を結んだようです。
すでに9月の段階で氏政は弟の氏照を信長のもとに派遣。鷹を献上し誼を通じていました。

10月25日、氏政は再び6万もの軍勢を率い甲斐の武田攻めに出陣。三島(静岡県三島市)に布陣。武田勝頼もこの動きに対し富士山の麓、三枚橋に布陣。両者は黄瀬川を挟んで対峙します。徳川家康は時を同じくして出陣。駿河に攻撃を仕掛けます。

29日、越中(富山県)の神保長住が葦毛の馬を献上。長住は謙信の死後、信長の援助により越中・富山城を奪還しており、神保氏は越後・上杉、信濃・武田への備えを担っていたと思われます。皮肉にも武田勝頼は父・信玄の仇敵であった上杉氏以外周囲を織田方の大名に囲まれる状況に追い込まれていました。

30日、荒木村重攻めの本陣・小屋野にいる織田信忠のもとには降伏を許された宇喜多直家の代理・基家(弟・忠家の子)が挨拶に訪れます。

このように荒木村重や別所長治のように信長を裏切る大名が相次ぐ一方、西に東に信長に味方する大名も次々と現れ織田政権は拡大していきます。

さらに信長は朝廷との友好関係を深めることも怠りません。

11月5日、工事が完了した二条新邸を皇室に献上。
陰陽博士の選定により22日が吉日ということで東宮(誠仁親王)が移ることになります。

12月には荒廃していた石清水八幡宮の修築を信長直轄領の山城代官・武田佐吉・林高兵衛・長坂助一に命じます。このように京の町衆の心を掴むことも忘れない信長でした。

12月18日、信長は二条新邸の東宮のもとに参内し金銀・反物を献上。
19日、信長は雨の中、安土に帰国します。