天正9(1581)年6月から7月にかけ北陸方面の織田家臣の粛清が相次ぎます。織田家臣といっても上杉謙信の死後、信長に降伏した者がほとんどでした。

6月27日、旧畠山家臣で親上杉派だった遊佐続光とその弟さらに続光の次男・伊丹三郎が能登・七尾城で切腹させられます。

遊佐氏は、謙信死後も親上杉派として七尾城を居城とし信長に抵抗。同じく畠山家臣で親織田派だった長続連はじめ一族のほとんどを殺していました。ちなみに長続連の息子・連龍は織田家に派遣されていたため難を逃れています。

このような経緯もあり、柴田勝家が能登北部まで侵攻してきたため織田家に降伏していた遊佐一族を信長は信用しておらず、菅屋長頼に命じて切腹に追い込んだものと思われます。

遊佐氏と常に行動を共にしていた温井景隆と弟の三宅長盛は、次は自分たちが粛清されると考え出奔し、上杉家を頼り越後に逃れます。以後上杉家臣として織田家に抵抗を続けます。

7月、今度は越中・木舟城主・石黒左近と家老・石黒与左衛門・伊藤次右衛門・水巻采女佐が狙われます。石黒氏も謙信死後、織田家に降っていました。
信長は、石黒一門を安土に呼び出します。

6日、石黒一門は30騎を率い安土へ向かいます。しかし、長浜で石黒氏は身の危険を察知し逃げ出します。信長は丹羽長秀に命じ佐和山で石黒一門を討ち取る計画をしていました。
計画が露見し逃げ出した石黒一門を討ち取るため長秀は手勢を率い長浜へ向かいます。長浜で長秀勢と石黒一門は戦うことになります。石黒氏の必死の抵抗により長秀の家臣2〜3名が討ち死にしますが、追い詰められた石黒一門17人は長浜の町屋内にて切腹して果てます。

7月25日にはすでに記述したように寺崎父子が切腹させられ、北陸方面で織田家に降った有力な国人の多くが、この時期一気に粛清され北陸方面の織田家支配体制は強固なものになりつつありました。