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足利義政

足利義尚と義視 〜将軍職後継問題〜

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文明5(1473)年3月に山名宗全、5月に細川勝元が相次いで死去したことで応仁文明の大乱は大きな転換点を迎えます。
もともと管領畠山家の家督問題に端を発したこの大乱は、その後他家を巻き込みそれぞれが分裂し、畠山家の家督問題前からくすぶっていた将軍家の家督問題も絡み合い日本国内は大混乱に陥りました。

ちなみに宗全・勝元が死ぬ前の両陣営の顔ぶれは以下のようになっています。(すでに没した武将も含まれています。ちなみにあってますか〜?)
【東軍】八代将軍・足利義政、細川勝元、畠山政長、斯波義敏、土岐政康、大内道頓、朝倉孝景(西⇒東)など

【西軍】義政の弟・足利義視(東⇒西)、山名宗全、畠山義就、斯波義廉、土岐成頼、大内政弘など

さて将軍継嗣問題ですが、義政は当初、浄土寺に入っていた義尋(ギジン)を還俗させ養子とし、義視と名乗らせその後見に細川勝元を指名していました。
しかし、寛正6(1465)年11月義政の妻・富子が義尚を生んだことで状況は一変します。

富子は義視にわが子は仏門に入れると約束していましたが、義尚の成長と共に将軍職につけたいと考えはじめ、兄・日野勝光や山名宗全と協力し、義視・細川勝元陣営と対立。
文正元(1466)年9月、富子や宗全らの動きに危機感を覚えた義視は細川邸に逃げ込みます。

応仁元(1467)年8月、西軍方の大内政弘が周防から大軍を率い上洛すると義視は東軍の敗北を予感し伊勢に逃亡。しかし、翌応仁2年4月に将軍義政は、義視を後継者とするつもりだったようで伊勢より京に呼び戻します。
義視はこれを機に日野勝光らの排除を訴えますが聞き入れられず、幕府内の対立が深まり義視は孤立。細川勝元も反義視派の意見を抑えることができなくなり、義視に出家を勧め、比叡山に上らせます。

これにより義尚が次期将軍最有力候補となり幕府内は将軍家の問題は収まるかに思えましたが、義視に野心があったのか、山名宗全が幕府での実権を握りたかったのか不明ですが応仁2年11月義視が西軍・山名陣営に入ったため対立は長引くことになります。
文明2(1470)年になると宗全は南朝・小倉宮の末裔とされる人物を擁立、義視もこれに賛同し“幕府的”機構を成立させます。
こうして東西両陣営は泥沼の対立をつづけますが、長引く対立でしだいに両陣営に凱旋気分が漂い始めます。

文明4(1472)年1月、宗全は勝元に和睦を提案。しかし東軍の赤松政則の反対で和平交渉は決裂したため、宗全は死をもってこの混乱を収めようとします。しかし、自刃するも家臣に引き留められ一命を取り留めます。細川勝元も隠居しようとしたという説もあります。

文明5(1473)年3月、自刃した時の傷がもとでに山名宗全が死に、5月には細川勝元も病死(暗殺されたとも)。12月、将軍・義政もこれを機に隠居を決めわずか9歳の義尚に将軍職を譲ります。これにより将軍継承問題も一応の決着をみます。

文明6(1474)年4月、細川勝元の子・政元と宗全の後を継いでいた山名政豊の間で和睦が成立しますが、これに異を唱える者が多く応仁文明の乱は終結までこの後4年を費やすことになります。

1473年(文明5年) 〜東西総大将の死と将軍職継承〜

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【天皇:後土御門(103代)、将軍:足利義政(8代)/義尚(9代)】

2月21日、【美濃】将軍足利義政、東軍に属する信濃の小笠原家長(松尾家)に信濃守護・小笠原政秀(鈴岡家)とともに西軍の美濃守護・土岐成頼を征伐するように命じる。

3月17日、【美濃】将軍足利義政、美濃の富島為仲に小笠原家長や木曽家豊と協力して出陣するように命ずる。小笠原家長・木曽両軍は、東美濃に攻め込み、守護代・斎藤妙椿が守る土岐氏の居城・大井城と荻島城を攻め落とす。

3月18日、山名宗全、自害の際の傷がもとで病没。

4月、幕府?、後ろ盾の宗全を失った畠山義就に対して畠山政長との講和を提案するが義就は拒否。

5月11日、細川勝元が流行病で死去。謀殺説も。8歳の嫡男・政元が家督相続。

6月23日、【武蔵】五十子の陣中で山内上杉氏の家宰・長尾景信死去。

6月24日、義政と義視がそれぞれ父で6代将軍の義教の33回忌法要を行う。

8月26日、義視が大内政弘の館に入る。

11月24日、【武蔵】古河公方・足利成氏が五十子の上杉陣を急襲し、扇谷上杉政真が討死。

12月19日、義政、子・義尚を元服させ将軍職を譲る。弱冠9歳。


【その他の出来事】
11月29日、幕府、紙商人九郎三郎光次に取引の独占を許可。


【生】
朝倉貞景:朝倉家9代当主。義景の祖父。(2月5日)

荒木田守武:伊勢神宮祠官・連歌師。

今川氏親:今川家7代当主。義元の父。駿河守護職・遠江守護職。文明3年生まれ説も。

松平長親:松平氏の第5代当主。家康の高祖(祖父の祖父)。


【没】
山名教之:山名熙之の子。伯耆・備前守護。(1月16日没。享年不明)

伊勢貞親:伊勢貞国の子。室町幕府政所執事。(1月21日没。享年57歳)

山名宗全:守護大名。応仁・文明の乱の西軍総帥。 (3月18日没。享年69歳)

細川勝元:細川氏嫡流・京兆家の当主。幕府管領。応仁・文明の乱の東軍総帥。(5月11日没。享年44歳)

長尾景信:山内上杉氏の家宰。古志長尾氏とは別人。五十子の戦いで陣没。(6月23日没。享年61歳)

上杉政真:扇谷上杉家当主。上杉顕房の子。相模国守護。五十子の戦いで敗死。(11月24日没。享年23歳)


【織田信長誕生まであと61年】



※主に戦国150年ニュース―戦国時代をフォーカス! (別冊歴史読本 (23))を引用・参考にさせていただいています。

1468年(応仁2年) 〜将軍・義政と弟・義視の対立〜

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【天皇:後土御門(103代)、将軍:足利義政(8代)】


3月21日、西軍主力の山名持豊(宗全)や畠山義就・大内政弘・斯波義廉らが京・伏見の稲荷山を攻める。稲荷山に拠る東軍・細川勝元の足軽大将で盗賊集団の首領・骨皮道賢が朝倉孝景(宗滴の父)に討たれる。

4月、将軍・義政、伊勢に逃れていた弟・義視を京に呼び戻す。

5月2日、東軍・細川成之が尾張・越前・遠江の守護を兼ねる西軍・斯波義廉邸を襲撃。

7月15日(10日?)、斯波義廉は管領を罷免され代りに細川勝元が就任。

9月4日、東軍、仁和寺の西軍を攻撃。


9月22日、義視が諫書を将軍・義政に提出。日野勝光らの排除を訴えるも受け入れられず対立が深まる。

11月、幕府内で孤立した状況になった義視に勝元は出家を勧め比叡山にのぼらせる。

11月24日、義視が西軍・山名陣営に取り込まれる。西軍、洛外山科を攻撃。

12月5日、義視の官位剥奪。

12月19日、近江にある義視の所領没収。



【この年の他の出来事】


【生】
明智光継(5月20日)
宇都宮成綱
北畠材親
島津運久

【没】
骨皮道賢:盗賊集団の首領。東軍・細川勝元の足軽大将(3月21日、享年?)

京極勝秀:守護大名・京極持清の長男。西軍・山名氏に属す。(7月6日、享年37?)

小鴨之基:伯耆の武将。備前守護代。船岡山の戦い(後の永正の船岡山の戦いとは別)で討ち死(9月7日、享年?)

陶弘房:大内氏の重臣。陶盛政の次男。京都相国寺の戦いで討死(11月14日、享年20歳前後)

相良長続:相良氏の第11代当主。東軍・細川氏に属し、病没(享年58)

少弐教頼:少弐氏当主。少弐満貞の子。東軍に属し、九州にて大内軍と戦い敗北。筑前の高祖城において自刃(享年?)



【織田信長誕生まであと66年】


※主に戦国150年ニュース―戦国時代をフォーカス! (別冊歴史読本 (23))を引用・参考にさせていただいています。
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