気が付けばもう3月・・・時が経つのは早いものですね。いまだ仕事は忙しく毎日長時間の残業、週休二日のはずが日曜しか休めない状況が続いていてブログの更新もままなりません。

唯一、見ているドラマは大河ドラマ『風林火山』のみ。しかし山本勘助いまだに武田晴信(信玄)に仕官しませんね〜(そろそろ仕官ですか?)

その『風林火山』に信長が登場するか気がかりなところですが、勘助が死んだのが永禄4(1561)年9月の第4次川中島の合戦のとき。桶狭間合戦で信長が今川義元を破った翌年のことなので、『風林火山』で信長が登場する可能性はわずかながらありそうですね?

山本勘助に関しては実在を疑われたり、信玄の軍師ではなく単なる使者だったなど謎が多い人物ですが、その活躍が記されているのは江戸時代前期に成立した『甲陽軍鑑』のようで、この『甲陽軍鑑』も信憑性が議論される歴史資料でまだまだ研究が必要なようです。

その『甲陽軍鑑』を研究している群馬県立歴史博物館の黒田日出男館長(東京大名誉教授)が最近、桶狭間合戦についての新説を発表され、信長が今川義元の首を取れた理由を「桶狭間合戦の前哨戦で勝利した今川軍が乱捕り中(略奪)に織田軍がドサクサ紛れに義元の首を取った」とされているようです。まあ、ありえなくもないかな〜といった感じですね??

さて、タイトルの「信長と山本勘助」。例によって?関係を“こじつけ”たいと思います(笑)

桶狭間合戦で義元を討ち取った信長は、その戦利品として義元が帯刀していた名物『宗三左文字』(別名:義元左文字)を手に入れます。
この『宗三左文字』は三好宗三が信玄の父・武田信虎に贈り、それを義元が引き出物として贈られた名物でした。

信長は義元を討ち取った記念に刀の茎(なかご・手で握る部分の中)に『永禄三年五月十九日 義元討補刻彼所持持刀』 『織田尾張守信長』と刻ませ生涯大事に保管していました。

信長の死後は、豊臣秀吉・秀頼父子に受け継がれ、秀頼はそれを徳川家康に贈り、以後徳川将軍家に代々受け継がれ“天下人が手にする刀”とも一部では言われているようです。明治になり徳川家達は建勲神社に刀を奉納し、現在は重要文化財として京都国立博物館に保管されています。

左文字は刀匠・筑州衛門三郎の略称で、多数の刀が存在しているようです。信長自身も数本所持していたようで、まさにお気に入りの愛刀だったようですが、実は山本勘助も左文字を愛刀としていたという話があります。
 
以上信長と山本勘助のつながりでした・・・・ちょっと強引過ぎでしたね(汗)