天正9(1581)年3月、徳川家康の軍が前年10月から包囲していた武田方の城・高天神城で大きな動きがありました。
武田勝頼の援軍のないまま約5ヶ月籠城を続けた高天神城の城兵ですが、多くの兵が餓死する状況になっていました。城将・岡部元信は、一か八かの包囲網突破を計画します。
3月25日亥の刻(午後10時頃)、夜陰に紛れ、高天神城城兵は一斉に城外に打って出ます。徳川軍と合戦になりますが、長期に渡る籠城のため体力の衰えきった武田軍の兵は次々討ち取られ総勢688人が討ち死にします。
この中には城将・岡部元信も含まれていました。副将を務めていた横田尹松は、命からがら甲斐へ落ち延びました。
この高天神城には天正2(1574)年、武田家に城を奪われた際、勝頼への臣従を拒み石牢に幽閉された大河内源三郎正局(まさもと)という徳川家の家臣がいましたが、徳川が城を奪還したことにより7年に渡る幽閉から開放されることになりました。
ちなみに大河内は、家康が今川家の人質となっている頃、今川家臣でしたが、家康に特にやさしく接してくれた人物だったようです。
高天神城を奪い返された勝頼ですが、信玄死後、長篠・設楽原合戦で重臣の多くを失いながらも何とか領国を保ってきましたが、高天神城を救えなかったことで家臣の求心力は大きく低下します。
この徳川軍の勝利により、武田攻めの好機と考えたかは不明ですが、信長はこの年、徳川領に大量の兵糧を運び込み武田攻めの準備を始めます。
信長と勝頼、決着の時まであと1年。
武田勝頼の援軍のないまま約5ヶ月籠城を続けた高天神城の城兵ですが、多くの兵が餓死する状況になっていました。城将・岡部元信は、一か八かの包囲網突破を計画します。
3月25日亥の刻(午後10時頃)、夜陰に紛れ、高天神城城兵は一斉に城外に打って出ます。徳川軍と合戦になりますが、長期に渡る籠城のため体力の衰えきった武田軍の兵は次々討ち取られ総勢688人が討ち死にします。
この中には城将・岡部元信も含まれていました。副将を務めていた横田尹松は、命からがら甲斐へ落ち延びました。
この高天神城には天正2(1574)年、武田家に城を奪われた際、勝頼への臣従を拒み石牢に幽閉された大河内源三郎正局(まさもと)という徳川家の家臣がいましたが、徳川が城を奪還したことにより7年に渡る幽閉から開放されることになりました。
ちなみに大河内は、家康が今川家の人質となっている頃、今川家臣でしたが、家康に特にやさしく接してくれた人物だったようです。
高天神城を奪い返された勝頼ですが、信玄死後、長篠・設楽原合戦で重臣の多くを失いながらも何とか領国を保ってきましたが、高天神城を救えなかったことで家臣の求心力は大きく低下します。
この徳川軍の勝利により、武田攻めの好機と考えたかは不明ですが、信長はこの年、徳川領に大量の兵糧を運び込み武田攻めの準備を始めます。
信長と勝頼、決着の時まであと1年。