天正9(1581)年8月?、信長は高野聖を捕らえるよう各地の諸将に命じます。

この高野聖とは、高野山金剛寺の勧進僧のこと。

ちなみに『勧進』(かんじん)とは、
仏教の僧侶が衆庶の救済のための布教活動の一環として行われる行為の1つである。
その内容としては直接民衆に説いて念仏・誦経などの行為を勧める者や寺院・仏像などの新造あるいは修復・再建のために浄財の寄付を求める者がいたが、中世以後には後者の行為を指すことが一般的となった。(『ウィキぺディア』より)


8月17日、各地で捕らえられた高野聖、数百人が処刑されます。これは高野山に逃げ込んでいた摂津・伊丹の荒木村重の残党を匿っており、信長の引き渡し要求を無視したためでした。
高野山は、無視した上に信長からの使者10人も殺害するなど敵対行動もとっていました。


後のことになりますが、信長の嫡孫・織田秀信が関ヶ原合戦で西軍に着いたため改易処分となり高野山に送られることになりますが、信長の高野山に対する行為が仇となり秀信は高野山で冷遇された上、追放処分を受けるなどし、悲惨な末路をたどることになります。