今回は初めて夜行バスを利用しての旅行。地元を深夜に出発。名古屋に到着したのが早朝6時頃。大雑把な計画で名鉄沿線(桶狭間古戦場や犬山城)を攻めようと考えていたので名鉄の一日乗車券を購入。3000円と聞いて躊躇しましたが、買えば気にせずどこでも乗降できるので買ってしまいました。

今回公開するのは、名古屋到着初日の桶狭間古戦場と二日目の鷲津砦・丸根砦・大高城です。

史蹟 桶狭間古戦場
名鉄中京競馬場前で下車。歩いて5分かからなかったと思いますが、念願の『伝桶狭間古戦場跡』に到着。ひっそりとした(早朝のせいか?)公園でしたがそこに桶狭間合戦に関する石碑や看板などが多数設置されていました。


七石表の一
写真は『七石表の一』といわれるもので、看板の説明によると「今川義元が戦死した場所を明示する最も古いもの」だそうで、元々塚があったようですが、明和8(1771)年に建碑されたそうです。既に合戦から二百年以上経過した頃に建てられたんですね。





今川義元公の墓
ご存知のように永禄3(1560)年5月19日、今川義元は討ち死にしたわけですが、この地に塚が建てられていたそうですが、明治9(1876)年有松の住人である山口正義氏が中心になり、この墓を建立したそうです。山口といえば織田家から今川家に寝返った鳴海城の山口教継の名が浮かびますが、その縁者なのでしょうか??





高徳院
桶狭間合戦時、今川義元が本陣を構えたと伝わる高徳院です。

今回、早すぎて中に入れる雰囲気でなかったので入りませんでしたが、中には「今川義元公本陣跡」の碑が建っているようです。以前はここに桶狭間合戦の資料館があったそうですが現在は閉鎖されてしまったそうで残念!


鳴海宿 本陣跡
お気づきのように桶狭間合戦とは関係ありません。東海道五十三次の宿場があったところで、この本陣は特に大名や公家などの身分の高い人たちが宿泊した場所です。

『鳴海』と聞いて思わず飛び降りてしまい、調べもせずにウロチョロ。『鳴海城跡』に行くつもりが『鳴海宿本陣』に辿りついてしまいました。どうやら通りを一本間違えたようです・・・


鷲津砦公園
かつて織田軍と今川軍が激戦を繰り広げた鷲津砦も今は子供たちが楽しむ公園になっていました。
この日は、雨だったせいか誰もいませんでした・・・



鷲津砦跡
合戦当日は、織田玄蕃(秀敏)が数百の手勢で、今川方の朝比奈泰朝軍2500を迎え撃ち壊滅。

大高の駅から数分と近いですが、標高数十メートルの小高い丘。思ったよりきつく、息切れしました〜。合戦当時は当然道も整備されていなかったと思われ、甲冑の重みも考えると攻める今川軍も意外と苦戦したのでは?と想像してしまいます。




丸根砦 戦没者慰霊碑
合戦当日は、佐久間大学(盛重)が、大高城救援に向かった松平元康(徳川家康)2000を迎え撃ち壊滅。
その合戦で命を落とした兵の慰霊碑です。
なぜか丸根砦跡だけに建立されています。


丸根砦跡
鷲津砦から約850メートル。途中、丸根橋というのが架かっているんですが、その周辺はかつて橋のない谷間だったと思われます。

鷲津・丸根両砦は、今川方の大高城・鳴海城の連携を絶つため作られ合戦当日は真っ先に攻撃の対象になりましたが、この両砦を攻めた今川軍もかなり被害を受けたようです。




大高城跡
合戦当時、今川方の鵜殿長照が約2000の兵で守備していました。松平元康は、今川軍の先方として参陣。
丸根砦を攻略し、大高城に兵糧を運び入れる活躍をします。

しかしこの直後、今川義元は、織田軍の攻撃により討ち死に。休息していた元康は一転、退却を余儀なくされる事になります。

写真は『大高城跡』の石碑です。


大高城跡公園
大高城跡公園は鷲津・丸根と駅を挟んで向かいにあり、間に川が流れています。小高い丘になっていてすぐにその場所はわかりますが、入り口が見当たりませんでした。周辺をグルグルかなり迷った末にようやく発見。

JR所有の空き地と廃墟となっている家の間の細い道を抜けたところにありました。もっとわかりやすい案内板を設置してもらいたいです・・・
公園として整備したのか、かつて城郭の一部であったためか不明ですが、意外と広い平地が数箇所確認できました。


さてお気付きの方も居ると思いますが、今回、もう一つの桶狭間古戦場伝承地・田楽坪の『桶狭間古戦場公園』『善照寺砦』『中島砦』『戦人塚』など下調べが不十分で、時間的関係もあり行かなかった場所がたくさんあります。また次回(いつになるやら・・)の楽しみにしたいと思います。