暑い・・・暑いですね〜今年は特に暑い・・

梅雨が明けるまでは、夏休みになったら史跡めぐりの旅行に行く気満々だったんですが、(はっきりしない)梅雨明けと共にテンションは下がり続けて“やっぱり”今夏も断念。

しかし、明日からちょっとした縁がある茨城に行ってきます。特に史跡めぐりというわけではないのでブログで取り上げることはないかもしれませんが、せっかくなので剣豪・塚原卜伝とサッカーの神様・全日本代表監督のジーコに会ってきます!といっても当然、どちらも銅像の話です・・・

塚原卜伝とジーコといえば、地元の方はすぐにピンと来ると思いますが、私が向かうのは鹿嶋市。

ジーコは、Jリーグ発足前の住友金属サッカー部(現鹿島アントラーズ)に入団してJリーグ発展に大きく貢献し、最後は日本代表監督としてワールドカップでも指揮をとり、結果は残念でしたが日本のサッカー史にその名を残した名将だと思います。

さてこのブログ、戦国時代と銘打っているので、信長以外にもちょっと触れたいと思います。

剣豪として名高い塚原卜伝ですが、戦国時代初期の延徳元(1489)年、鹿嶋市にある鹿島神宮の神官・卜部(吉川)覚賢(うらべのあきかた)の次男として生まれ、後に塚原(城内原町有賀字塚原・現水戸市)の塚原安幹の養子になります。
塚原氏は鹿嶋市にある鹿島城を居城としていた鹿島氏の一族になります。

実父からは鹿島中古流刀術、養父からは天真正伝香取神道流を学び、独自の『一の太刀』を編み出します。(松本備前守から伝授されたとも)
鹿島新当流(新当流・卜伝流)の開祖。

戦国時代、各地で戦乱が続く中、17〜30歳の頃、武者修行の旅に出て、旅を終えてからも室町13代将軍・足利義輝や伊勢の国主・北畠具教らに出向き剣術を指南したようです。

足利義輝は上泉信綱にも剣術指南を受けており、永禄8(1565)年、松永久秀や三好三人衆に襲撃されたとき抜き身の刀を何本も突き立て、攻め寄せてくる敵兵を次々討ち取り剣豪振りを発揮していますが、多勢に無勢。あえなく討ち死に。

北畠具教も義輝同様、信綱にも剣術指南を受けていたようですが、天正4(1576)年、信長の命で信雄が北畠一族を襲撃した際、具教は一人で19人を討ち取ったとも言われていますが、やはりこちらもあえなく討ち死に。具教の剣術を恐れ事前に刀の刃をつぶされていて、なすすべなく討ち死にしたという説もありますが・・

卜伝自身は、元亀2(1571)年に83歳で死去しますが、真剣勝負で一度も負傷したことがなかったそうです。